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  広島電鉄 1060形 1061  2013/05/26 UP
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−鉄道車両写真集−
広島電鉄 宮島線(鉄道線)用高床車
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1060形 1061 
1957年 ナニワ工機製 全鋼製ボギー車 
15.956×2650×4140 27.1t 
定員120
台車 ND102(日車)平行カルダン駆動 
モータ TDK829A 45kw×4ギヤ比101:14
制御器 ES-701A ブレーキ SMED 
*1989年 廃車
広島電鉄 1060形1061 撮影;西広島

−−扉の位置にご注目。−− 広島電鉄 1060形 1061−− 

広島電鉄といえば、誰しも路面電車というイメージをお持ちだろうと思います。
しかし広電には鉄道事業法が適用される鉄道線が存在します。
西広島−広電宮島 間 16.1kmを結ぶ宮島線です。むろん全線専用軌道です。
宮島線各駅のプラットホームには市内線直通に使われる路面電車型(低床車)用の低いものと、
鉄道線専用車(高床車)用の高いものの2つがあったのをご存じでしょうか。
今や、ほとんどの列車が市内線に直通運転しますので、路面電車仕様の車両しか広電には存在しませんが、
かつては当線専用の鉄道線仕様車両(高床車)が在籍していました。

私が初めて、宮島線を訪れたのは、私が高校生の時(1976年?)です。
叔父が広島へ転勤し、宮島線古江駅近くにあった新居を訪ねたときのことでした。

その当時の鉄道線仕様の高床車のラインナップをご紹介しましょう。

1050形(→1090形 )
1947年に京阪神急行電鉄経由で移籍してきた元京阪の木造ボギー車がその前身です。
1953年に車体更新しました。
1981年には連結改造し足回りを一新しています。
翌82年に1090形に改番しています。
宮島線に残った最後の鉄道線車両となりますので、
多くの方々の記憶に残っているのは1090形ということになるのでは…。
1984年には高床車では唯一冷房化されました。
残念ながら、叔父は大阪へ戻ってきてしまい
冷房改造された1090形の写真はありません。
1990年から1991年にかけて廃車されました。
1090形 4両
1050形を 1979年片運転台化 2連固定に
全鋼製ボギー車 15.875×2642×4284 25.5〜28.5t 
定員114
台車 78-25AA(BW)ツリカケ駆動 
モータ HS-314Ar 90kw×2ギヤ比55:15
制御器 ES762A ブレーキ SME

*1984年冷房化 1991年形式消滅
広島電鉄 1090系 1092 撮影;西広島

1070形
元阪急500形(1938年川崎車輌製)で、
1967年に500〜05.08.09の8両が広電に移籍してきました。
移籍にあたり、ドアの位置が変更されています。
阪急に見慣れた私にとっては異様の一言でした。
能勢電には、ほぼオリジナルの状態で500形が移籍していましたので
なおさらでした。
1987年から1988年にかけて廃車されました。

1070形 4両 もと阪急500形 1938年川崎製
1967年広島入り ドア位置変更 2連固定に 
全鋼製ボギー車 15.250×2642×4284 25.5〜28.5t 定員92
台車 27-MBC-2(ブリル)ツリカケ駆動 ギヤ比62:24
モータ SE-263/107 48kw×4/2 奇数車/偶数車
制御器 PC-5 ブレーキ SME

*1987〜88年 廃車

広島電鉄 1070形 1076 撮影;新井口

1080形
元阪急210系です。
1956年に電動貨車である旧3000形の足回りを流用した更新車です。
211-212-261の1編成しかいないこれも珍車です。
嵐山線で活躍していたのを記憶しています。
1976年、211-261の2両が広電に移籍しました。
移籍にあたり、1070形同様ドアの位置が変更されています。
1989年11月廃車されました。
1080形 2両 もと阪急210形 1956年ナニワ工機製
1977年広島入り ドア位置変更 2連固定に 
全鋼製ボギー車 15.080×2744×4210 28.3t 
定員110
台車 M-12(?)ツリカケ駆動 ギヤ比62:24
モータ TDK531B 56kw×4
制御器 ES-32R ブレーキ SME

*1989年 廃車
広島電鉄 1080形 1082 撮影;西広島

他社からの転入車、及びその改造車が多くを占めていますね。
しかし、広島電鉄のオリジナル車も存在します。
それが、1060形です。

1060形は1957年にナニワ工機(現 アルナ車両)で製造された宮島線用の自社発注車両です。
広電初の平行カルダン車で。台車はND-102。長電の2000形と同タイプです。
当時としては意欲的な高性能車で電空併用ブレーキも採用しました。

しかし1060形は1両しか作られませんでした。
1980年代、他の宮島線専用車は2連固定に改造されましたが、
1両しか存在しない1060形は単行のまま運用を続け、
晩年は宮島競艇場への貸し切り電車として主に使われました。

廃車は1989年です。

今回、この1060形をの珍車として取り上げたのは、
1両しかいないという希少価値もさることながら、
なぜ広島電鉄がこのような高性能車を作っておきながら、なぜ量産しなかったのか。
その謎に迫りたかったからです。

さて、先に高床車のラインナップをご紹介したのには理由があります。
それらの画像のドア位置に注目していただきたかったからです。
私は生まれてこの方ずっと阪急沿線に住まいしてきました。
嵐山線で活躍していた210形も記憶していますし、
能勢電には、ほぼオリジナルの状態で500形が移籍していましたので
彼らの姿に見慣れた私にとって、このドア配置は異様の一言でした。

これは、路面電車に多く見られるスタイルです。
なぜ、このような改造をしたのでしょう。
もちろんオリジナルの1060形もこのスタイルです。

鉄道車両の扉、とりわけ通勤用車両にあっては、
短時間に多くの乗客を捌く必要から、大型のドアを車両に均等に割り当てます。
しかし路面電車の場合、少し事情が違います。
ターミナルなどでは駅員さんが料金を収受することもありますが、
いわゆる電停では乗務員さんがこれを受け取るのです。
ですから、乗り口と降り口を分け、
料金ゲートとなる乗降口では一人ずつ通れるくらいの幅が都合がいいのです。
また路面電車といえば、そのほとんどがワンマンカーですが、この場合
運転台のすぐそばにドアを持ってゆくことになります。
かくして車両の中央部に大きな入り口、車端部に小さな出口
というスタイルができあがってゆくのです。

加えて、路面電車の電停は相対式と相場は決まっています。
日本の道路は左側通行ですから、
運転手さんは進行方向の左側で料金を収受することになり、右側を使うことはありません。
ならば使わない扉は取っ払って座席をセットする方が乗客にとっては有り難い。
というわけで、非対称のドア配置ができあがりました。

そこで宮島線です。もちろん全線専用軌道の路線なのですが、
併走する国鉄山陽線とは違い、駅の間隔は狭く、国鉄時代、
西広島−宮島間におけるその駅数は、山陽線の4 に対し 宮島線はなんと21です。
ちなみに宮島線の駅はそのほとんどが無人駅でかつホームはすべて相対式です。
旅客扱い上は、プラットホーム付きの電停と考えて差し支えないでしょう。
宮島線はその全長16.1km。市内線の全長 18.8kmと比較して思いの外、長いという印象はありますが、
その乗客は宮島に向かって一方的に減ってゆくばかりで効率のよい路線とはいえません。
車両数も1983年当時、総在籍数169両のうち、直通車は49両。
鉄道線専用車に至っては 16両にしか過ぎません。
つまり、広電にあってはあくまで、市内線こそが本体であって、宮島線は付属路線と考えるべきなのです。
乗客にしてみても、市内線の流儀でそのまま宮島線を利用できる方が気楽です。
よって宮島線の車両は路面電車仕様でよい。ということになってゆくのです。

ただ1060形がデビューした当時はというと、
高床車のメリットが捨てきれない情勢でした。
実は、1060形が登場した一年前、市内線用に広電は550形を登場させているのですが、
そのうちの551号は、当時はやりのPCCカーを意識した高性能車でした。
しかし、その状態はあまり芳しくなく、車庫で昼寝をしていることが多かったのです。
メンテナンスでも、キャパシティーでも、高速性能についても高床車がまだ優位に立っていたということです。
でも、スピードでは、前述したように山陽線には所詮勝てないのです。

鉄道線専用車は2000形(直通車)に牽引されて千田車庫に入場したらしいのですが、
1060形は単独で自走できたそうです。
ひょっとしたら、1060形を直通運転させることも考えていたのかもしれません。
鉄道線車両が、併用軌道に乗り入れてくる例は、今もなお福井鉄道で見られます。
福井鉄道には電停があり停車時に出てくる大きなステップで昇降します。
電停自体の数が少なく停車時間も長く設定されるため大きな問題にはなりませんでした。
しかし、この風景はバリアフリーの時代にはそぐわないものです。
福井鉄道でも、まもなくこの姿は見られなくなります。
まして広電の市内線で同じような光景はというとちょっと想像できませんね…。
やはり、路面電車仕様の電車が直通してゆくのが自然の流れというものなのでしょう。

新性能試作車であるということもあってか、1060形は1両しか作られませんでした。
そして1060形にとって、このことが大きなマイナスポイントとなるのです。
考えても見てください。ほぼ全列車が2両編成以上なのです。
そこで1両編成がやってきて、…座れない。おまけに大混雑。
誰からも歓迎されない1060形は、貸し切り列車で活路を見いだすしかありませんでした。


さて、ここで直通運転の歴史を振り返ってみましょう。
最初は貸し切り列車からスタートしました。1958年3月のことです。
当初使用したのはは550形と850形(現350形)でした。
そして本格的に直通運転がスタートしたのは1962年1月。
宮島線の広電西広島駅と市内線の己斐電停が現在の場所に移転したことから
広島駅前−広電廿日市間で、営業直通運転が開始されました。
その当時、営業運転時に用意された車両は、550型 850型、2000形、2500形です。
全てツリカケ駆動の旧型車でしたが、
市内線専用車よりもモータの数を増やす、あるいは出力自体もUPすることで、導入にこぎ着けました。
単行ではなく、2連または、連接車という形態でキャパシティーをUPして臨んだことも正解でした。

直通運転区間を広電宮島まで延長したのは、翌年1963年5月になります。
以後、宮島線専用車(高床車)が1991年8月に 運行を終了し、路面電車タイプに統一されるまで、
宮島線では路面電車(低床車)と鉄道線専用車(高床車)が、ほぼ交互に運転されることになります。
しかし鉄道線専用車は西広島−二日市間の運用がメインとなり、もはや専用車は完全に脇役に回っていました。

ここで、鉄道線仕様の高床車が完全にその姿を消した理由について考えてみます。
それは、国鉄が民営化されJR西日本が、広電に勝負を挑んできたからです。
宮島線は山陽本線とほぼ並行しています。
かつてはフリークエンシーサービスで優位を保っていた宮島線でしたが、
今やJR西日本は「ひろしまシティ電車」を高頻度に走らせており、時刻表の必要はありません。
国鉄からJRへ移行し、JR西日本も駅の数を増やしてはいますが、
今でもJRの1駅間に広電は2 - 4駅もあるのです。
それでなくても線形が圧倒的に有利なJR西日本にスピードでかなうはずはないのです。
これと同じ立場であった西鉄宮地岳線は路線縮小を余儀なくされました。
広電がこの危機を乗り切るために、市内線へ直通運転させることができるメリットをフル活用するのは当然のことです。、
そのために全車両を路面電車仕様に切り替え、原則全て市内線直通とすることはやむを得ないことでしょう。

あわれ、中途半端な存在であった1060形は、旧型車である鉄道線専用車たちよりも早くその姿を消すことになるのです。

参照「私鉄の車両3 広島電鉄」保育社 
鉄道ピクトリアル「中国地方のローカル私鉄」No493 1988.3


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