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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>JR東海 119系「するがシャトル
「飯田線に里帰りした119系」- JR東海 119系「するがシャトル」1980年当初、中部山岳地帯の電化ローカル線である飯田線では身延線・大糸線同様、 多数の旧形国電が使われていました。 いずれも勾配区間の多い路線であることから、 身延線と大糸線では1981年から勾配区間用抑速ブレーキ付きの115系を投入して旧形国電を置き換えました。 でも、飯田線については、多少事情が違っていました。 飯田線は、もともと直結した4社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時中、国有化し統合したことで成立した路線です。 地域のニーズに合わせ駅を沿線集落ごとに設けたことから、 全長195.7km中に90余りの駅があります。ですから駅間距離の平均は約2km。 大都市の市街地路線並みです。駅間距離が国鉄の地方路線としてはとても短いのです。 さて、1981年当時、 1M方式で短編成運用ができる新性能車として105系がデビューしていました。 飯田線は駅間距離が短いことからも加速力重視の特徴を持つこの105系こそが性能的にも適していたといえましょう。 しかし200kmクラスの長大路線でありかつ山岳路線が大半を占める飯田線に (25パーミルの急勾配区間が多く一部には33パーミル・40パーミルも存在する) 短距離利用の通勤客がメインとなる可部線や福塩線、宇部小野田線用に開発された105系を持ち込むには無理があります。 編成単位の大きい列車について用いられてきた80系については165系での置換えが開始されましたが、 その他の旧形国電の置換えには、2両での運転にも適応した車両を新たに導入する必要が生じてきたのです。 そんな飯田線の特殊な輸送事情に対応した新形式の近郊形が119系です。 飯田線で使用されていた旧性能電車を置換えるため、 1982・83年にクモハ119形33両とクハ118形24両の計57両が新製され そのすべてが豊橋区に配置されました。 車体デザインは105系と同じですが、長時間乗車に適したセミクロスシート車で、 T'cには便所を設置しました 足回りもまた105系に準拠(台車(DT33)、主電動機(MT55)、歯車比なども同じ)しながらも、 主制御器は、105系用CS51をベースに、勾配抑速ブレーキとノッチ戻し機能を追加したCS54が新たに設計されました。 そして狭小トンネル対応のパンタグラフ、いわゆるペチャパンPS23Aが装備されている点も見逃せません。 天竜川の清流とアルプスの雪をイメージした塗装(青い車体に白い帯)でデビューした119系は 特定のローカル線での運用に着目して設計された国鉄電車で、特異な存在と申せましょう。 一方で製造コストの低減を図るため、MG、連結器、ブレーキ部品等、 廃車発生品・余剰品が多数使用されていることも忘れてはならないポイントです。 Tcの台車については 101系の廃車発生品であるDT21Tをはいています。 電動車でないのにも関わらずTR-でないのは妙ですね。 そうです、オールMが基本が基本となる101系にあって、TR-台車は少数なものですから、電動機を取り外して供給したというわけです。 なおMcが 103系と同じDT33ということは、車輪径が910mmということです。 101系のDT21は標準的な860mm車輪ですから、119系は車両ごとに車輪径が違うということになります。 同じタイプの台車なので外見からは直ぐにそうとは見えませんが、 現場泣かせの一面もあったのではないでしょうか。 1964年の東海道新幹線開業以後、 東海道本線は普通列車による地域旅客輸送が中心となりました。 国鉄末期の1984年2月のダイヤ改正以降、 列車を高頻度な都市型ダイヤでの運行すべく「するがシャトル」と命名された列車を中心に、 興津-島田間では、1時間あたり4本(15分間隔)で運行するようになりました。 使用車両は静岡区の111・113系(原則として4両編成)です。 そして 1986年11月。 国鉄最後のダイヤ改正にあたって 同区間を1時間あたり6本(10分間隔)に増発することになったのです。 当然、そのためには車両を増やす必要があります。 さもなくば列車を短編成化するしかありません。 ところがMMユニットである113系4連を分割して使用することはできなかったのです。 そこでこの時、増備されたのが飯田線で運用されていた119系(2連×8本)というわけです。 国鉄電車編成表61.11.1改正号によると 119系16両(SS1~8編成)が東海道線 裾野、興津-島田間の「するがシャトル」用として静岡運転所に転属していました。 それにしても、この移動は119系が飯田線に投入されて3年後のことです。 前述したように119系は、飯田線での使用にあわせて開発されたもので、 東海道本線での使用をにらんで製造されたものではありません。 ではなぜ? 国鉄電車編成表83年版をみると、185系が大量に49両新製されていることが見て取れます。 配置区所は新前橋。すなわち新幹線リレー号用です。 東北上越新幹線は1982年11月に開業するのですが、まずは大宮以北のみで、 1985年3月の上野開業まではリレー号で凌ぐことになったのです。 いわば繋ぎの列車に新車を投入するわけで、私には納得がゆきませんでした。 なぜなら急行用として増備されてきた165系がだぶついてきており、 これに転換式クロスシートを取り付けるなどのリニューアルをするのが妥当だと考えたからです。思えば 185系リレー号用に充てられた予算をそのまま211系の増備にまわせば、 「するがシャトル」をすべて211系化(2連~3連)したっておつりがきます。 そうならずとも113系3連を捻出することで増発は十分可能だったのではないでしょうか。 閑話休題 結局、行き場をなくした165系は、飯田線にも転用されることになりました。 165系に職場を譲った119系16両は「するがシャトル」用として静岡に転属。 1986・87年に専用塗色に変更、パンタグラフも狭小トンネル対応のPS23Aから一般形であるPS16形に交換しました。 確かめたわけではありませんが、そのいくつかは165系と交換し165系の活躍場所を広げたことでしょう。 加えて、冷房改造(AU75を搭載)も行われました。 これ自体はいいことだと思います。 しかし119系は、駅間距離が長く運転速度の高い東海道本線での運用にはもともと不向きなのです。 加えてかなりの重量物であるAU75を背負わされた119系はかなりしんどい思いをしたのではないでしょうか。 画像をご覧ください。行き先が「中部天竜」になっています。 これはJR東海に承継後の1989年に豊橋駅で撮影したものです。、 「するがシャトル」としての活躍を期待されての新塗装でしたが、 結局2年あまりで飯田線での運用に戻ることになったのです。 しかし、あの天竜川の清流とアルプスの雪をイメージした塗装に戻されることはありませんでした。 飯田線でそのまま活躍を続けていた119系とともに湘南色帯の「JR東海色」となり、 「飯田線」のオリジナル塗装は消滅してしまいました。 非冷房車のままだった残留組の119系にも冷房改造が行われました。 でも、インバータ制御式の冷房装置を搭載したことから車番は5000番台となり、 クーラーの違いからも、「するがシャトル」組とは区別がつきました。 そして、この違いが命取りとなるのです。 119系はその後、飯田線で活躍を続けますが、313系の増備と213系の転用により、 2012年3月で定期運行を終了しました。 そして、一部の車両はえちぜん鉄道に譲渡され、MC7000形として2013年から運転を開始することになります。 しかし、2014年に12両すべてが出そろったときも、AU75装備車は見当たりませんでした。 理由は重量です。 AU75という重荷を背負う「するがシャトル」組は45tを優に超えます。 線路規格の低いえちぜん鉄道にあっては、少しでも軽い車両を求めるのは当然で 哀しいかな「するがシャトル」組にはお声がかからなかったのです。 でも、彼らにしてみれば、119系の能力が活かされる飯田線こそが自分たちの居場所であると思っていたように私には思えます。 今更、新天地に赴く気にはなれなかったのではなかったか。という気がするのです。 参考文献:JR電車編成表88年夏号 国鉄電車編成表61.11.1改正号 鉄道ピクトリアル 「特集 117系.185系」 2010年.9月 No838 の記事 |
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