2012/12/30 UP | ||||||||||||||
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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>東京急行電鉄 世田谷線用 デハ150形
世田谷線に路面電車タイプの車両が走るわけ東急世田谷線は、玉川線の支線である下高井戸線(=三軒茶屋−下高井戸間)が名を改めたものです。玉川線は、1907年(明治40年)、玉川電気鉄道の手によって開業した渋谷−玉川間がルーツで、 その路線の大半が併用軌道となっていました。 都電との乗り入れを考慮したことから、ゲージは1372mm。車両はもちろん路面電車タイプです。 下高井戸線は1925年(大正14年)に開業しました。 現状を見ていただければおわかりいただけると思いますが、併用軌道の区間はありません。 1969年、玉川通り上への首都高速渋谷線の建設、及び地下路線となる新玉川線の建設計画により、玉川線は全線廃止されたわけですが、 世田谷線は全線専用軌道であったこと、そして京王線、小田急線、新玉川線を繋ぐ利便性が買われて存続されることになったのです。 併用軌道がないのにもかかわらず、路面電車タイプの車両が走っているというのはそういうわけです。 ところで玉川線が廃止された当時、世田谷線用には車歴の新しいものが優先的に残されたといいたいところなのですが、 実は新性能車であるデハ200形は一台も世田谷線には引き継がれなかったのです。 デハ150形のお話をする前に、このデハ200形に触れておきたいと思います。 東急玉川線の革命児−デハ200形−デハ200形は1955年に201 - 206の6編成が東急車輌で製造されました。見るからに”まあるい”愛らしい電車で”ペコちゃん”と呼ばれていました。 しかし、可愛いだけではありません。 当時の路面電車タイプの車両としては、まさに革命的な高性能車だったのです。 もし撮影できていたら、とうの昔にこの”珍車ギャラリー”で採り上げていた車両です。 どのように凄いのかと申しますと…。 超低床構造でありながら、中空軸平行カルダン駆動やHSC(発電ブレーキ付き電磁直通)ブレーキなど を採用した高加減速性能を備えた2車体連接車です。 連接台車が1軸であるというのも他に例を見ない特殊構造ですが、 東横線用旧5000形で採用された張殻構造(モノコックボディ)をもつのが大きな特色で、このことによって大幅に軽量化が図られました。 それにしても、なぜこのような最新鋭車両が姿を消したのでしょう? 先進的であることが、かえって問題となったのです。 まずはメンテナンスの問題です。 超低床車体であるが故に、抵抗器など多くの機器を天井にもってゆきました。 落下のおそれだけでなく屋上には架線があります。危険を伴う作業が増えたわけです。 床下にも多くの機器が残されましたが、ボディマウント構造としたことから、サイドからの手入れが困難となりました。 そのため、ピット線に入れて検査しなければならなかったのです。 しかも他の旧型車と著しく構造が異なる新しいメカは複雑に艤装されていたため、 故障時などには多大な手間を要するものとなっていたのです。 それでも、その高性能が必要であるなら、作業される方々も練度を高め保守にあたられたと思います。 しかし、実際には旧型車でも、実用上問題はなく、 運転取り扱いが全く異なるデハ200形は、むしろ異端であるが故に、乗務される方々にとっても有り難い存在とはならなかったのです。 また扉の位置が旧型車と異なっていたために、乗客にとっても困惑の対象となりました。 やんぬるかな。デハ200形は廃車が決定され、1969年5月。 玉川線の廃止とともに、他社に譲渡されることもなく、製造からわずか14年で全車両が廃車となりました。 玉電最後となるデハ150形は、ツリカケ駆動の旧性能車さてデハ150形です。1964年に東急車輛で4両が製造されました。番号は後戻りしていますが、デハ200形の9年後に製造されたということになります。 後戻りしたのは、番号だけではありません。そのメカもです。 性能的にはカルダン駆動で間接自動制御(自動加速)であったデハ200形からは大きく後退し、 ツリカケ駆動で単位スイッチ式間接非自動制御(手動加速)、ブレーキも旧式のSME(非常管付三管式直通空気制動)となりました。 先祖返りしたわけですね。なぜでしょうか? それはデハ200形にできなかったこと。 すなわち他形式との連結=総括制御を可能するためです。 保守作業の効率化、運転取り扱いの統一も視野にあったに違いありません。 車体もデハ80形などと同じ13m級3扉車体となり扉の位置も合わせました。 ところで、1964年ということは、玉川線廃止の5年前です。 5年後には大量の余剰車両が発生することが目に見えているのに、なぜデハ150形を新造する必要があったのでしょうか。 車体としては、デハ70形より新しい、デハ80形が大量に存在していたのです。 こちらを更新し足回りをリフレッシュする方がリーズナブルです。 なぜ、新車を導入したのか? これは憶測ですが、グループ企業である「東急車輌製造」の思惑が働いていたのではなかったかと私には思われるのです。 東急車輌製造という会社「東急車輌製造」は、2012年4月「JR東日本」に吸収され、その名も「総合車両製作所 J-TREC」となってしまいました。しかし、日本の鉄道車両メーカーとしてはメジャーというべき存在でした。 世界に誇る新幹線も製造してきたわけですから、その技術力も秀でたものがあります。 特にステンレス車体においては、「東急車輌製造」が業界をリードしてきたといっていいでしょう。 でも、戦前からある 川崎、日車、日立、などからすると、東急車輌製造は戦後(1948年)に発足した後発のメーカーなのです。 国鉄に対しては、ずーっと気動車を供給してきましたが、 電車については、10年以上のブランクあり、あらためて電車のメーカーとして指定されるのは1963年のことです。 張殻構造で直角カルダン駆動の旧5000系のDNAを引き継いだ革命児−デハ200形−は、 東急車輌製造の技術力を示す広告塔のような存在だったのではないでしょうか。 1953年には、都電5500形(ナニワ工機)そして大阪市電3000形(川崎車輌)という、新世代の路面電車、PCCカーが登場していました。 ここでも後れをとった東急車輌製造は、もう一歩進んだ技術をデハ200形で世に示す必要があったのです。 その後、東急車輌製造は1958年に日本初のステンレス車体をもつ電車5200系をデビューさせ、 1962年には米国バッド社と技術提携をしオールステンレス車体の7000系をデビューさせます。 ステンレス車体は無塗装でも錆びることなく、保守もラクで長寿命です。 車両を軽量化できるのも強みです。強度についてはコルゲート板を張り付けたり、リブをつけることで克服できました。 ただステンレス車体は成形がスチールのように自由にはゆきません。 そして、デハ150形こそは、このオールステンレス車体である7000系を彷彿させるコルゲート付きの角張った車体をもつことになるのです。 えっ?デハ150形は、ステンレス車体じゃないの?私は長いことデハ150形はステンレス車体だと信じていました。ところが、デハ150形はステンレス製ではなく、スチール製(耐候性高抗張力鋼)となっています。 路面電車は、今なおスチール製が主流です。 それは、併用軌道を走行する以上、自動車との接触事故は避けがたく、 その折、ステンレス車体やアルミ車体では修復が困難となるからです。 ひょっとしたら、デハ150形はステンレス車体のつもりで設計されたのかもしれません。 でも、今回は現場の強い声があってスチール製に落ち着いたのではないかというような気もします。 それはさておき、素材がどうあれ、デハ150形は、デハ80形に比べて、1割方の軽量化をなしえましたのは事実です。 また誰が見ても、東急の新型だとわかるフォルムです。 デハ150形もまた、東急車輌製造の技術力を示す広告塔のような存在だったのではないでしょうか。 デハ150形は1983年から更新が始まり、片運転台化とともに顔つきも少し変わりました。 また側面のコルゲート板がステンレス化されました。電源装置のSIV化なども実施されています。 しかし、70形や80形のようにカルダン駆動に改造されることはなく、ツリカケ駆動のまま2001年、300形に置き換えられました。 参考文献 鉄道ピクトリアル 1977年6月号 No335 特集「東京急行電鉄」 「東急車輌製造株式会社 63余年の車両製造史」 松村 寛氏 鉄道ファン 2012年10月号 No618
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