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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>ED78 901
国鉄が、交流電化区間の主役に、多種多様の交流電気機関車を増備し続けたのはなぜ?昭和40年代まで、交流電化区間、すなわち北海道、東北、北陸、九州の幹線、亜幹線は交流電気機関車の天国でした。次々と交流電化開業する路線には、颯爽と、赤い電気機関車たちがデビューし、主役の座を獲得してゆきました。 交流電化の歴史は、昭和30年 仙山線(作並-仙台間)からでしたから、日の出の勢いといっても過言ではないでしょう。 なぜなら、この十数年間に、なんと15形式を数える交流電気機関車が誕生しているのです。 現在、最新鋭の交(直)流電気機関車といえば、EF510形レッドサンダーです。 国鉄最後の交直流電気機関車EF81の後継機として、平成14年以降、少しずつ導入が進められています。 その前はといえば、EH500形エコパワー金太郎です。 その試作車である-901が誕生したのは平成9年ですから、もう10年前になるのですね。 このペースから考えても、かつてのペースがいかに速かったかがおわかり頂けると思います。 それにしても昭和62年のJR化以後、実用となる新形式の交(直)流電気機関車が、10年も出現しなかったのは、どうしてでしょう まずはJR化以後、旅客列車において、動力の分散化(=客車→電車、気動車)が進んだことが挙げられるでしょう。 機関車が必要な貨物列車が、激減したことも挙げられます。 時代が変わったのだといえばそれまでですが、 なぜ、国鉄は、多種多様の交流電気機関車を増備し続けたのでしょうか。 なんといっても、昭和30年代以降、国鉄の電化区間が、交流電化によって大きく拡がったからです。 交流電化は、高電圧を用いるため、変電所の数を少なく抑えることができました。 一方、小電力であることから、設備は軽装で、また、商用電源である50/60Hz による交流電化が実現したことで経費も節減することができました。 一方で交流電化は20000Vという高電圧です。 高電圧であるということは、電流が流れる架線設備等は、もちろんのこと危険で、車輛についてもそれなりに対応する必要が生じます。 また、当時の交流用車輛は、直流モーターで駆動するため、交流電源を直流に整流してやる必要もありました。 つまり、電化路線、施設にくらべ、車輛(動力車)1両あたりにかかるコストは高く、 機関車を用いることで動力車を集中させた方が有利だったのです。 当時は、支線区間にも貨物列車が走っており、牽引車となる機関車は必要不可欠です。 また昭和20年代後半から30年にかけて、毎年500両のペースで、大量の木造客車が、鋼体化改造を受けています。 昭和30年には鋼体化客車だけでも3530両もの客車が存在していました。 これらを有効活用しなければならない事情もありました。 さて、それにしてもなぜこれほどの短期間に、交流電気機関車は、こんなにも数多くの形式が開発されたのでしょうか。 それはまず、半導体技術等のテクノロジーが、もの凄い勢いで進歩していたということが挙げられます。 最も初期の交流電気機関車は、タップという装置で電圧を変え、それを水銀整流器で直流に変えていました。 しかしもう、その10年後には大容量のダイオードやサイリスタが開発されました。 メンテナンスの点でも有利なこれらのデバイスを使わない手はありません。 もっとも当時の技術者の方々にとっては、目の回るような忙しさではなかったかと推測するのですが、 エキサイティングな時代だったともいえるのではないでしょうか。 新形式の電気機関車が、相次いで登場した理由はそれだけではありません。 新しく交流電化開業した区間は実に多様で、それらに対応した機関車を製作する必要があったことも挙げられます。 本州から乗り入れてくる列車が多い、九州地区にあってはSG(蒸気暖房装置)を搭載する機関車が必要です。 北海道という極寒の地には、もちろん特別の配慮が必要です。 磐越西線という亜幹線にあっては、その線路状態に合わせて、軸重を軽くした機関車にアレンジすることが求められました。 そして、東北地区最大の山岳路線である奥羽本線にも山岳路線用の交流電気機関車が必要ということになったのです。 山岳路線用交流電気機関車 ED94 1 のちのED78 901の誕生かの板谷峠の区間においては、東北本線より一足早く直流電化開業がなされていて、すでに、EF64形直流電気機関車が、板谷峠の主として活躍していました。しかし、奥羽本線は、東北地区の交流電化のメリットを広域化するためあらためて交流電化されることになりました。 時あたかも43.10(ヨンサントウ)の大改正に合わせたプロジェクトの一環でした。 この時に開発されたのが、ED94 1。 のち量産化改造されED78 901となる今回の主役です。 豪雪地であることに加えて33.3パーミルという急勾配を登っては、降って行かなければならない、そんな板谷峠を走るため電気機関車として、彼は誕生しました。 1;交流電化区間における回生ブレーキの採用EF64形電気機関車にかわる電気機関車を交流電気機関車で開発することになったわけです。…でもこれは決して簡単なことではありませんでした。 EF64形電気機関車であれば、抑速ブレーキである電気ブレーキ(モータを発電機にして電力を発生させることでブレーキ力とする)で発生した電力は、抵抗器につなげて熱にしてしまえばそれでおしまいでした。 しかし交流電気機関車には、もともと抵抗器がありません。 発生した電気は、もと来た架線に返すことにしたのです。回生ブレーキです。 21世紀のテクノロジーでは、通勤電車にも当たり前のようについているブレーキですが、かつては直流電車においても、その効率のあり方から紆余曲折を経てきたのが回生ブレーキです。 前述しましたがED94は、交流電気機関車とはいえ、そのモータは直流モーターです。 そこで発生した直流を交流にして、架線に返す。素人考えでもこれは難しいと想像できる技術です。 それだけではありません。上手にやらないと誘導障害が発生します。 わかりやすくいえば、テレビに想定外の電波が飛び込み画像が乱れてしまうようなことです。 このテレビが、信号に置き換わったとしたら、これは、ただごとではありません。 12年後の、昭和54年に開発された781系交流特急電車でさえ、結局抵抗器を搭載することで、つまりブレーキ力を熱にするという手段で、これを解決してしまっているくらいの大問題です。 これをクリアしたわけです。 2;軸重を変化させることのできる中間台車の採用また、中間台車を組み込むことで、軸重を軽減し、亜幹線への入線を可能にしたのが、ED93、つまり後のED77 901ですが、ED94では、その中間台車の空気バネについて、その空気圧を変更することで軸重を2t単位で調整できるワザを付け加えました。 このことで活躍の範囲がいっそう拡がりました。 また起動.停止時にも軸重を調整できることから運転時の安定性も増したのです。 磐越西線用に開発されたED93が製造されたわずか2年後にデビューしたED94は、 信じられないような短期間であっても、様々なスケジュールをこなし、30〜40%という良好な回生率(回生電力量と使用電力量の比)でもって試験を終えました。 その技術を継承したEF71には故障が多発したものの、決定的なものではなく、 量産車であるED78についても1件しか大きな故障はありませんでした。 ED78はEF71も含めて安定した性能を持つ機関車であったわけです。 43.10のダイヤ改正に間に合わせるべく量産されたED78およびEF71の礎となったED94は、凄い機関車というべきでしょう。 昭和55年には最終ロットとなる12.、13号機が誕生するのですが、10年のブランクがあるのにもかかわらず、大きな変更は見られません。 これは、高い信頼を得ていたからに他なりません。 そして、12.、13号機こそは、国鉄として製造された最後の交流電気機関車となるのです。 ED94を量産化改造したED78 901は、昭和61年。 国鉄民営化の前年に廃車されました。 これだけの功績をもつ機関車を解体するのは忍びなかったのでしょう。 処分保留のまま、吹田機関区に保存されていました。(写真上参照) しかし、彼もいつの間にか姿を消してしまいました。 ED78 12.13号機は、山形新幹線開業後も、その応用力の広さを活かし、新たな職場 仙山線に移り活躍を始めました。 しかし、貨物が、なくなってしまってからは、その優れた性能を活かすこともなく、閑職に甘んじ、平成12年にはその姿を消しました。 ED78 12 参考文献;鉄道ピクトリアル No665 特集 奥羽本線 「国鉄時代の名機−ED78形電気機関車」杉田 肇氏 ;鉄道ファン No432 特集;交流電化開業40年の各記事 |
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