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2007.12.16UP | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
J鉄局TOP>珍車ギャラリー>遠州鉄道 モハ51
遅れてやってきた30系新性能車 遠州鉄道−モハ51編成私が、初めて遠州鉄道を訪ねたのは1984年の8月。その頃は、今の名鉄ホテルのあたりに遠鉄の新浜松駅がありました。 奥山線が廃止された以後の遠州鉄道はというと、来る電車は、どれもこれも、30系(モハ30形+クハ80形)ばかりでした。 湘南形のスタイルの15m級電車である30系は、端正なスタイルの電車です。 でも、見た目に変化に乏しく、訪ねてゆこうにもあまり触手が動かなかったというのが正直なところです。 しかしそんな30系にも一風変わった電車がいたのです。 モハ51(+クハ71)です。 すこし顔つきが違いますが、それだけではありません。 ツリカケ電車だったはずの30系と同じ形式でありながら平行カルダンの新性能車だったのです。 ところで、モハ51編成が登場したのは1980年12月。 これが遠州鉄道において初めての新性能車のデビューとなるのですが、いかにも遅いと思われませんか? ちなみに浜松市とは、ライバル関係にあるといってもいい静岡市には静岡鉄道が存在します。 静岡鉄道も同じように2両編成の電車がフリークエンシーサービスをする点に特色があるのですが、車両の新性能化については一歩も二歩も先行していました。 静岡鉄道に初めての新性能車である300形が登場したのは1966年。 遠州鉄道モハ51編成より14年も早いのです。 それどころか、なんと1973年にはステンレスカーである1000系がデビュー。 1980年当時には主力車両として静岡鉄道の顔となっていました。 静岡市と清水市(当時)という二都市を結ぶ都市間連絡を担う静岡鉄道にあってはJRという強力なライバルがあるわけです。 この選択が正しかったということについては300形のページでもご紹介しました。 対して遠州鉄道には、ライバルの鉄道会社はありません。 静岡鉄道とは違い、郊外から市街地への通勤通学輸送の足としての性格を持ちます。 でも、やはり車両の新性能化は遅れているといわざるを得ません。 モハ51が登場した当時国鉄では201系がもうデビューしていました。 70年代における遠州鉄道最大の課題![]() 鉄道の近代化についてはあまり興味を示さなかったということでしょうか。 それは違います。もっと切実な問題があったのです。 それは路線そのものです。 終点の西鹿島は、浜松駅のほぼ真北に位置します。 しかし電車は東へ向かって行き、次の遠州馬込駅でスイッチバック、そこから進路を北に変え西鹿島へと向かっていくという無駄なコースを通っていたのです。 さてその遠州馬込駅(写真右)は、というと 町の中心部でもなければ繁華街があるわけでもありません。 なぜこんな 殺風景なところに立ち寄るのかといえば、かつて(1976年)まで、この遠州馬込駅で国鉄と貨物の受け渡しを行っていたからなのです。 それにしても、もう目の前にある浜松駅をわざわざ避けるように設定されたルートは、浜松駅に向かう乗客にとってストレス以外の何ものでもありません。 貨物がなくなった後は、全く無駄なルートとなってしまった当路線を廃止し、浜松駅に直結するルートを設定することは当然の帰結といえるでしょう。 しかし、この新ルートは市街地、それも浜松市の一等地を貫くルートとなります。 東西の交通を遮断することがないよう高架線にするのはもちろんのこと。用地の確保についても一筋縄にはゆかないものであったと思われます。 おそらく浜松市最大規模の再開発計画の中に位置づけられた新線計画に対し遠州鉄道は、市当局におんぶにだっこというわけには行きません。 遠州鉄道は、まさに、その社運をかけてこの新線プロジェクトに取り組んでいたのです。 そしてこのプロジェクトが進行していたその時期に、在来型である30系の新車として、モハ51編成は登場することになります。 静岡鉄道のように新しいタイプの新性能車を次々と開発する余裕などなかったというのが、実際のところではなかったかと思われるのです。 とはいえ陳腐に見える30系もよく見てゆけば、なかなかの名車です。 ツリカケ駆動電車の完成型だった遠州鉄道30系30系は1958年から1980年まで、なんと22年の長きに亘って、増備された車両です。31から始まった番号は40番台にゆかず、29からは逆に若い番号を付与することになったのもユニークですが、18m2ドアの基本スタイル(いち早く廃車された31編成のみ17m車)を変えることなく増備されていったのは、30系が完成度の高い車両でメンテナンスの面でも扱いやすい車両だったからだと思われます。 しかし20年もの間、30系は何も進歩していないわけではありません。 1967年以後の新車は扉が両開きになり、翌年以降の車両では、ブレーキも変更されました。 そして1978年製のモハ25編成では、台車が空気バネのND306となり、なんと冷房装置まで取り付けられたのです。 ツリカケ駆動の電車が冷房付きの新車でデビューした例は、おそらく他にはないのではないでしょうか。 そういった意味では、こちらを珍車としてご紹介したいくらいです。 一方静岡鉄道が、いかに車両の新性能化をしたと言っても1000系ステンレスカーに冷房改造を施したのは1986年からです。 ツリカケ駆動の電車である赤電を独自に発展させていった遠州鉄道は、決して車両の近代化をおろそかにしていたわけではないのです。 モハ51編成は、1980年12月。そんな流れの中から生まれました。もちろん冷房車です。 新性能化されたことで50番台を付与されましたが、18m級2ドア車である点は踏襲されているわけで30系の形式を引き継ぎました。 しかし、これが最後の30系となります。 1985年12月 新浜松−助信間高架新線開業懸案だった路線の問題点は解消され、ストレートに浜松駅に接続するようになった遠州鉄道は、ものの見事に、乗客減にストップをかけました。そして、新生遠州鉄道にふさわしい次世代の車両がデビューしたのです。1000系です。 車体長を0.5m延ばし、3ドア車となったことから、一気に1000番台の新形式が付与されました。 でも、足回りはというと、モーターも台車もモハ51編成と変わりはありません。 モハ51編成は、じつは、しっかりと次世代の電車への引き継ぎ役をこなしていたのです。
参考文献;鉄道ピクトリアル 「特集 甲信越東海の私鉄」No431 |
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