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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>日本国有鉄道 EF63形直流電気機関車
-勲章の数々- EF63形 直流電気機関車 現在、首都圏から北陸方面への鉄道貨物は、上越線経由の二往復ということになります。 信越線経由ではありません。 1997年の長野(北陸)新幹線開業にあわせ、並行在来線である信越線はJR東日本の手を離れ、 横川ー軽井沢(横軽)間については廃止されてしまい、レール自体が繋がっていないのですからどうしようもないですね。 他の新幹線並行在来線区間が3セクの「しなの鉄道」に移行したのに、 なぜ この区間だけが廃止されたのでしょうか。 さて今回、お話しするEF63形は、この区間だけのために製造られた特別な機関車です。 同区間の廃線に伴い、その運命をともにしました。 特別な機関車が必要とされたこの区間…。 まずは、この区間、すなわち碓氷峠についてお話ししましょう。 碓氷峠は、関東平野から、日本一の河川である信濃川(千曲川)の源流近くにまで、一気に駆け上がる難所に位置します。 ところがこの区間は、往古より太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要衝でもありました。 明治20年代、ここに鉄道を通す計画が持ち上がったのは極めて自然な流れです。 スイッチバック式やループ線などを設ける案も検討されました。 しかし、地形的にうまく対処できず、 ここを越える横川~軽井沢間11.2kmは,66.7‰という最急勾配路線をアプト式というシステムでもって、 これをクリアすることにしたのです。ちなみにこの区間の標高差は552m。 アプト式とは、急勾配の線路を登る際に滑り落ちないよう、 「ラックホイール」と呼ばれる歯車型の車輪と「ラックレール」というこれまた歯車型のレールを噛み合わせることで 坂を登っていくシステムで、 スイスのカール・ローマン・アプト氏によって開発されたものです。 横軽区間では、このラックレール、すなわちピニオンギアを軌道の中央に3組、120度ずらして敷設しました。 何が何でもよじ登ってやる。という気迫が感じられます。 当然、この区間を走る機関車には、ラックホイールを装備した特殊な機関車が必要です。 当初、ドイツから輸入したアプト式蒸気機関車3900形が投入され、 この区間を最高時速9.6km、1日24往復、約80分で結びました。 でも、蒸気機関車です。トンネルの多さからもその煤煙が大きな問題となりました。 その後、煙突をT次形にした3920形が導入されたり、 トンネルの入り口に排煙幕を設置し、最後部の機関車がトンネルに入るやいなや、 これを引き下ろす「隧道番」という職人まで動員されました。 しかし、これだけ苦労をしても、1列車10両(当時の客車)が限界で、 輸送力の貧弱さは如何ともしがたいものとなってゆきます。 こうした問題を克服すべく、明治45年、横軽区間は日本初の幹線電化区間となりました。 今回もドイツから輸入した電気機関車10000形(EC40形)が導入されました。 所要時間も49分で結べるようになり輸送力もUPしました。 戦後、日本経済は発展を続け、これでも輸送力に限界が見えてきました。 そこで、またも勾配の緩い新線の建設が計画されましたが、多大な建設費がかかることから、 同区間に平行する新線を複線で建設、さらにアプト式から粘着運転方式にすることで輸送力の改善を図ることにしたのです。 これに伴い,この急坂でも粘着運転可能な2550kW級のF形電気機関車の開発が決定しました。 こうして信越本線直通仕様のEF62形と横軽区間専用仕様のEF63形が誕生することになるのです。 EF63形は1962年5月に1号機が試作機として製造されました。 それ以降,1976年7月まで,東芝,三菱・川重・富士などという錚錚たるメーカ-により製造され, 総数は25両となります。 EF63形ではベースとなるEF60形,EF61形と同じくB-B-Bの動軸配置とし, F形機では最重量となる運転整備重量108tで計画されました。 18tという平均軸重をして、強大なパワーを空転させずにレールに伝えるというわけです。 もっとも ただ重いだけではありません。中身も濃いのです。 66.7‰という急勾配の横軽区間を通過する(電車も含む)全列車の補機という特殊な任務を全うするために、 数多くの独自かつ特殊な装備が搭載されています。 主電動機はMT52形直流直巻電動機(端子電圧750V時1時間定格出力425kW)を採用しました。 制御装置は勾配区間での空転を防止する観点から、従来の単位スイッチ方式を取りやめ、 ノッチを細分化しトルク変動を小さくすべく CS16形電動カム軸式自動進段抵抗制御器・CS17形バーニア制御器・CS18形電動カム軸式転換制御器を搭載します。 台車もまた特殊装置が装備された独自の設計です。 両端台車はDT125形 。ここにはには電磁吸着ブレーキを装備しました。 電磁吸着ブレーキは鉄製の電磁石を直接レールに吸着させ制動力を得るものです。 レールブレーキとも呼ばれます。 制動時に車輪がロックしてしまったら、発電ブレーキは当然効きません。 これを防ぐ事を目的とした補助ブレーキですが、なくてはならぬ助っ人です。 中間台車はDT126形 。こちらには過速度検知専用の小型車輪を装着しました。 空転するやもしれぬ、動軸に速度検知を委ねるわけには参りません。 なにせ下り勾配での走行において、 旅客列車38km/h・貨物列車は25km/hの上限を超えてしまうと列車停止が不可能となるのです。 運転時、旅客列車で35km/h、貨物列車では22km/hを超えると警報が鳴り、 制限速度を超えると非常ブレーキを作動させるシステムが装備されています。 また各台車の軸重は、横川側17t・中間18t・軽井沢側19tとアンバランスな状態に調整されました。 これは、勾配区間では麓に向かって軸重が移動することを考慮した措置です。 肝心かなめの常用ブレーキですが、 通常の空気ブレーキであるEL14AS形自動空気ブレーキを搭載しています。 「え?そんなのでいいの。」 話は最後まで聞いてください。 EF63形では停電時でも圧縮空気を供給可能できるよう 大容量の蓄電池で空気圧縮機(CP)を動作させるようにしているのです。 加えて抑速ブレーキです。 つまり電動機を発電機としてブレーキ力を電気エネルギーに変えるシステムです。 現代の高性能電車ではこの電力を架線に戻し、再利用する回生ブレーキが当たり前ですが、 66.7‰という最急勾配路線にあっては、確実にこの電気エネルギーを消費してしまわねばなりません。 EF63形では大容量の抵抗器を装備、これを熱エネルギーとして使い切ります。 そのために装備された冷却用の大型ブロワーは坂を駆け下る列車の車内にまで響いていました。 次に協調運転についてお話しします。 当初、電車列車はEF63形による牽引・推進運転のみで行っていました。 しかし、これでは最大8両編成までしか運行できませんでした。 輸送力不足を解消するために、電車側のモータにも働いてもらおうと、 EF63形と協調できる制御を始めました。 このことで最大12両編成までの組成が可能となります。 協調運転機能を持つ169系・189系・489系の各系列が開発され、 EF63形にも対応する装置ならび協調制御指令用KE70形ジャンパ連結器が追加搭載されました。 EF63形は、下り列車では後補機として重連で列車をプッシュ。 上り列車では前補機として先頭にたちます。 つまり、常に麓側(横川向き)に連結され、山側(軽井沢向き)には、機関車、電車、気動車と、 動力車が接しこれらと力を合わせ峠を越えます。 特に電車との連結協調運転は他では例のないものです。 まず連結器からして違います。 双頭型両用連結器を装備しました。 加えて様々な動力車との連結用ジャンパ連結器等が設置されました。 私には、彼らが勲章を連ねているように見えました。
協調制御はEF63形のMC35A形主幹制御器から 電車側各電動車ユニット主制御器を介して各電動機の制御を行います。 横軽スイッチ(協調運転設定スイッチ)を投入すると 協調運転の対応可否・電動車ユニットの状態がEF63形の運転台でも確認が可能となります。 またATS信号受信もEF63形で行う設定になります。 EF63形は、列車を後ろから押し上げる後補機という位置をとりますが、 運転はEF63形の機関士が行います。 よって上り勾配(下り列車)では主幹制御器の逆転機スイッチは後進力行位置にして、 バック運転をしているカタチになります。 そこで、先頭に陣取る電車の運転手との連絡は不可欠です。 軽井沢ゆき下り列車では、前方の安全・信号確認は先頭になる電車運転士が担当し その連絡をうけ、最後尾に陣取った機関士が操作するのです。 SLのように汽笛で合図というわけには参りません。 当初から無線電話が装備されていました。 しかしトンネル区間を中心に雑音が多く、 また列車間のみならず、横川機関区や横川・軽井沢両駅との連絡を確実にするため 1975年から専用漏洩同軸ケーブルを新たに敷設しました。 TVのアンテナ端子に繋ぐ同軸ケーブルに隙間を空けたものとイメージしてください。 普通、同軸ケーブルは内部の信号が漏洩しないようにしっかりシールドするものですが、ここにあえて隙間を空けることで、 この近辺の僅かな領域でのみ、電波の送受信が可能になるというものです。 ここから発射される電波には400MHzの周波数帯を割り当てました。 このことによって、大容量、高品質の通信・通話が可能となりました。 そう地下鉄でも携帯電話が使えるのと同じ仕組みです。 ちなみに東海道新幹線ではアンテナを使用した通常の空間波無線を用いていましたが、 電波が届かない不感地帯対策として1989年にこの方式に移行しています。 つまり、横軽区間のほうが先輩です。 さらに1980年代に入り異常時に他列車への連絡を可能とする機能を追加。 1990年以降は、了解度向上を目的に 通称『C'アンテナ』と呼ばれるコーリニアアンテナを設置しました。 船舶などにも多く用いられている棒状白色のものですが、これがまたカッコイイのです。 横軽区間を継承したJR東日本は、長野新幹線の開業が決まるとすぐに、 同区間の廃線を決定しました。 開業以来、ヒト、モノ、カネ、そして手間をかけなければ越すに越せない区間でしたから、 当然といえば当然です。 国民の雇用を創出し、そして何よりも国民の足を守り抜くことを使命としてきた国鉄とは違い、 JR東日本は営利企業なのですから。 かつて横軽区間は外国の技術でもって、この難関をクリアしました。 しかし、国鉄は、独自の技術でこれを克服しました。 思えば上越線をメインルートとし、横軽区間を従来の技術でお茶を濁すことだってできたはずです。 上越線は、昭和7年に清水トンネルが貫通したことにより、すでに全線電化開業していました。 さりながら日本屈指の豪雪地帯を通過するが故に、トラブルも多発していたのです。 信越ルートの重要性が変わることはありませんでした。 そして、ここ横軽区間を独自の技術で維持することは、国鉄の矜恃 そのものではなかったかと思うのです。 今や新幹線がこの区間を迂回して、スィー…と何事もなく越えてしまうわけですが、 かつて、この峠に注入された鉄道関係者のエネルギーは半端なモノではありません。 そしてその叡知の結晶がEF63形であったと申せましょう。 1997年10月1日の長野(北陸)新幹線開業に伴い, 信越本線横川-軽井沢間は廃止となり,EF63型は全機運命を共にしました。 碓氷峠鉄道文化むらにおいて,1,10,11,12,18,24,25号機が保存されている他, 2,14,15,19,22号機も各地で保存されています。 参考文献:Rail Magagine 301 「日本の機関車」 RM pocket17「碓氷峠」 ともに ネコ パブリッシング 「国鉄電気機関車ガイドブック」誠文堂新光社刊 碓氷峠鉄道文化むらのHP
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