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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>JR東日本 489系 N300台編成
どういうわけか影の薄い-JR東日本の489系-489 系は、碓氷峠越えるために作られた最初の特急電車です。碓氷峠は群馬県と長野県の県境にあり、JR東日本のエリアです。 489系の後に登場する189系はJR東日本の車両です。 しかし、昨年引退した489系H01編成は、JR西日本の所属です。 1971 年から信越本線の特急「白山」「あさま」用として活躍した489系は 1997年、長野新幹線の開業により 信越本線の横川 - 軽井沢間が廃止され、その本来の使命を失いました。 以後夜行急行「能登」として上野~金沢間で運用され、 「能登」での運用なきあとも、 TDL(舞浜)臨などで首都圏に乗り入れていましたから、 関東の方々のほうが、馴染みがあるように思います。 どうしてJR西日本なの?と言われそうですね。 1983年の国鉄電車編成表を見ると、 当時は489系は、そのすべてが金沢運転所の配属となっています。 金沢運転所は、JR西日本の所属です。 どうやら、このへんに原因がありそうですね。 しかし489系は、 実はJR東日本にも、489系は在籍していました。 それも、ボンネット型よりも新しい貫通路付き(485系で言えば200番台タイプ)です。 ところが、2000年までに全車廃車となりました。10年も前です。 いったいなぜ? 実のところ「白山」はJR東日本にとって、あまり旨みのある列車ではなかったのではないでしょうか。 「白山」は北陸本線、富山、金沢と首都圏を最短距離で結んではいるのですが、 上野-金沢の所要時間は6時間半です。 現在は、北越急行ほくほく線と上越新幹線をリレーして4時間かかりません。 新幹線の実力がいかに凄いかがわかります。 当時も、長岡経由で上越新幹線とリレーして5時間ほどでした。 JR東日本としては、運賃収入に加え特急料金でもがっぽりいただけるわけで、 こちらを利用して欲しいと思うのは当然でしょう。 しかしJR西日本にしてみれば、新幹線乗り継ぎ割引で特急料金を値切られてしまうわけですから、 乗り換えなしのメリットとお安い運賃でこちらをアピールしたいところです 1997年、長野新幹線の開業により信越本線の横川 - 軽井沢間が廃止された以上、 JR東日本としては、489系より車齢の新しい189系の活用を優先して考えるのは当然のことです。 JR東日本所属のN300台編成については全車廃車となりました。 489系のことをもう少し詳しくお知りになりたいお方は引き続きお読みください。 碓氷峠と489系時刻表の地図をみると、信越本線の横川 - 軽井沢間は途切れてしまっていて空白になっています。 長野新幹線ができるまでは、ちゃんと在来線が通っていました。 ここには碓氷峠という、 電車はそのままでは峠を越えることができないという難所中の難所があったのです。 この峠の麓となる横川駅の標高は386.6m、 対して軽井沢駅は939.1m(矢ヶ崎にあるピークは941.9m)。 550mあまりの標高差をがあるこの区間を11.2kmほどの距離で一気に駆け上がるのです。 そのために国鉄最大となる66.7‰の急勾配区間がその大半を占める、 他に例のない区間が誕生しました。 かつてはこの難所を越えるのにアプト式という方法で坂を上っていました。 機関車に設置した歯車とレールの間に設置したラックレールを噛み合わせて 坂をよじ登るというというシステムです。 当然速度は遅くなり(SL時代の所要時間は75分)、大量輸送にも適してはいません。 この区間は明治44年に、いち早く電化されたとはいえ所要時間は43分~47分。 時速でいうと18km/hで運転されていました。 (ただし集電装置は第三軌条、つまり、地下鉄銀座線と同じ) 戦後、気動車を電気機関車が牽引するという異種混結もこの碓氷峠で始まっています。 1961年にデビューした急行「志賀」です。 キハ58形といきたいところですが、 ラックレールに支障をきたさないよう、床下機器を見直し、 ディスクブレーキに空気バネ台車と最新の装備を備えたキハ57形が新製されました。 もちろん、ED42形電気機関車のパワーでもってこの区間を越えていくわけですが、 新たに機関車を付け替えなくていい分、スピードUP、 上野-長野間で初めて4時間30分をきる快挙を成し遂げました。 国鉄では、1963年より、EF63形電気機関車の力でもって、 台枠・連結器の強化などを施した横軽対策車を押し上げることにしました。 EF63形はこれを開発する際、 3重連で電車12両を押し上げ、かつ安全に坂を降りることを目標としました。 しかし、非常ブレーキ時、連結器等に過大な力がかかることがわかり、 保安上8両までに制限されることになりました。 その後、信越本線の輸送量は増大し1966年には同区間は複線化されます。 しかし、最大66.7‰の急勾配区間であるため、 何らかの理由で停車してしまった列車は、何をしようが山には登れず、 後退して出直し、つまり平坦なところで再起動するしかなかったのです。 そのため複線化されてはいても、 1閉塞区間に1列車しか入線できない特別なルールが存在しました。 複線なのに熊ノ平信号所(渡り線がある)が設置されていたのはそういうわけです。 ですから、さらなる輸送量の増加に対応するには 編成増しかないということになりました。 そこで、電車と協調運転することで8両の壁を乗り越えることにしたのです。 試験用に製造された165系(12連6M6T:のちの169系900番台)に 定員の200%の死重を積み込み、降雨時を想定した散水装置まで準備するという、 徹底したテストの結果、 1968年、協調運転用急行用電車として169系がまず量産されました。 その3年後の1971年。 上野 - 金沢間の特急「白山」用として、 協調運転関連の装置を装備した特急電車を製造することになったのです。 それが489系です。 基本設計は485系と共通ですが EF63形と連結される上り方のクハ489形には、連結器カバーが省略され、 協調制御用KE70形ジャンパ連結器が設置されました。 (500番台のみブレーキホースも設置) EF63形からの協調運転用引き通し線は北側に設置されました。 これにより489系は、片渡りで方向転換ができない構造となり、 クハ(Tc)は上り方と下り方で番台区分を変えています。 また協調運転装備を追加した結果、中間車についてもすべて489系となりました。 (なお485系と混結することは可能です。当然協調機能は失われますが)、 つまり。169系も489系も碓氷峠を越えるためのスペシャリストなのです。 489系のバラエティー1971年から74年ににかけて製造された489系は485系がそのデザインを変えてゆく過渡期と重なるため、そのバラエティーを引き継ぐことになります。 (Tc=14組28両・Ts=28両・MM'ユニット42組=84両・TdならびにTが14両ずつと編成単位の製造が行われました。 78年にはサロ489形1000番台を10両の追加、JR東日本時代に485系から2両改造編入されたものもあり、総車両数は180両。) 1次車は、1971年 - 1972年上期に製造されたグループで、 いわゆるボンネット車であるクハ489形 0番台と500番台を含みます。 (タイフォンがスカートにある1971年製造車と タイフォンがボンネットにある1972年製造車があります。) 外観は485系0番台と同じくAU12形クーラーを搭載。 2次車は、1972年下期に製造されたグループで、 貫通形のクハ481形200番台タイプのクハ489形 200番台と600番台を含みます。 クーラーも集中型を搭載。 3次車は、1974年に製造されたグループで、 非貫通形のクハ481形300番台タイプのクハ489形 300番台と700番台を含みます。 クーラーも集中型を搭載。 参考文献 「碓氷峠」RM Models 1997年9月号増刊 ネコパブリッシング 鉄道ピクトリアル「特集485.489系特急形電車ⅠⅡ」1988.8./9 No'498/499
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