2012/09/17 UP | |||||||||||||||||||||
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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>JR西日本 クモハ103−48 もとクモハ103形5000番台
−−昔の名前で出ています。−− JR西日本 クモハ103−48片町線では、クモハ103-5001と呼ばれていました。片町線は現在、学研都市線と呼ばれていますが、正式な路線名は片町線です。片町線の由来は、浪速鉄道が開業した際、 片町駅が終点(ターミナル)だったことからですが、 思えば、なんともローカルな線名です。 (片町駅はJR東西線開業と同時に廃止されたため、現在京橋駅が終点となっています。) というのもかつての片町線における事実上のターミナルは京橋駅です おそらくその98パーセント以上の乗客はここで下車し、高架駅である大阪環状線などに乗り換えていったのです。 鴫野に親類がいた私にとっては、 片町線は旧型国電が走っている頃からのなじみの路線ですが、 その昔から京橋駅片町線ホームは大変な混雑で、 片町線が関西の国鉄線では初の電化区間(1932年)だったというのも頷けます。 しかし、国鉄時代の片町線にはもう一つ、全く別の顔がありました。 木津駅 - 長尾駅間です。 1989年3月に電化されるまでは長尾駅で運転系統が分かれ、 木津駅 - 長尾駅間は気動車が運転されているローカル線だったのです。 編成も単行か2連。列車本数も極端に少なく、 時刻表がなければえらい目に遭う路線だったのです。 長尾以東が県境(府境)越えになることもあったかもしれませんが、 通勤圏が長尾までだったということでしょう。 しかし、京橋=長尾間は約26kmに過ぎません。 長尾以東が、通勤圏になり得なかった理由は 片町線の列車がすべて普通列車で快速列車などが設定されていなかった ことに原因があったように思われます。 JR西日本の路線となり、片町線も大きく変貌してゆくことになります。 快速が1988年3月に設定されました。 当初は平日ラッシュ時のみでしたが、翌89年3月の改正では、 前述したように、木津駅 - 長尾駅間が電化され、 快速は日中にも設定されることになりました。 そして直通列車となる快速列車は同志社前駅そして木津駅まで 運転区間を拡大することになったのです。 なおこのとき、あわせて松井山手駅を開業しています。 電化され、直通列車が快速運転されることになり、ぐっと便利になったとはいえ。 一気に輸送需要がUPするはずもありません。 まして、木津−長尾駅間は7両編成に対応していません。 そこで103系を分割併合仕様に改めることにしたのです。 片町線がJR西日本に移管された当時、101系と103系が 淀川電車区に配属されていましたが、 淀川区の7連のみならず、明石区の7連も改造対象になりました。 C号車(サハ103)とD号車(モハ103)の双方に自動解結装置が取り付けられ、 付属編成4連+基本編成3連に分割されました。 ただサハ103については、床下機器の位置に問題があり方転改造をしたことから、 新形式のサハ102(=5001〜5013)が付与されました。 モハ103についても運転台も新たに取り付けられたことから クモハ103(=5002〜5016)となっています。 さて5001が欠けているのにお気づきになったでしょうか。 実は5001のみ、クモハ103形オリジナル車からの改造車なのです。 これが、今回のヒロイン、クモハ103−48です。 国鉄末期には明石区に配属され東海道山陽緩行線で活躍していました。 奈良区からの転属、改造となっていますが、関西線色にはならず、青22号のままでした。
Tc=M=M'=T= M=M'=Tc ↓ Tc=M=M'=T +Mc=M'=Tc ↓ Tc=M=M' +Mc=M'=T=Tc しかし、うれしい誤算と申しましょうか。 基本編成が3連では混雑が非常に激しいことから 翌1990年3月には4連に増強されることになります。 付属編成C号車のサハ102形を基本編成E号車に移動しました。(編成表の赤字部分) このときに新形式のサハ102(=5001〜5013)は自動解結装置を撤去、 0番台(=1〜13)に改められます。 そしてその自動解結装置は付属編成B号車のモハ102に取り付けられ、 モハ102-5000番台が新たに登場することになるのです。(=5001〜5013) これが、クモハ103形5000番台の新しいお相手です_ しかし、それもつかの間のことでした。 JR西日本は、学研都市線とその名を改めた片町線をイメージアップする作戦に出ました。 東西線の開通にともない直通運転するための新車を一足早く、 学研都市線に導入したのです。 207系です。 1991年から投入され、1992年には、 松井山手以東の区間には、207系4連(B1 〜16編成)が充当されることになりました。、 結果、103系は7連固定で使用されるようになってしまい。 快速として使用されることはなくなってしまいました。 しかし短編成化されたことで、 関西線用に、また山陽本線広島以西用にその活躍の場が拡がってゆくのです。 冷房車であったことも幸いしました。 流れ流れて、広島へこのような、経緯を経てきているのが、広島運転所の103系D編成(D1〜3)なのです。彼女らは、1993年に瀬戸内色に装いを改め、 B16 〜18編成として4連で広島入りしました。 さて、その際5000番台に取り付けられた自動解結装置は取り外されました。 モハから先頭車改造されたクモハ103形5000番台は、2500番台に改められます。(=2501〜2515) そして、もともとクモハ103形だった48号は、元の番号に復帰することになったのです。 その後、サハ102を引き抜かれ(日根野に転属)3連となったD編成ですが、 2002年にワンマン改造され、現在も呉線をメインに快速列車として活躍中です。 片町線の近代化に振り回された彼らですが、振り返ってみると クモハ103形にいたっては、オリジナル車で生き残っているのは48号のみです。 103系も、いよいよその数を減らしてきています。 昔の名前でがんばっている48号に出会ったら、 一筋縄ではなかったその遍歴に思いを馳せてやっていただけたら…と思います。 参考文献 鉄道ピクトリアル 新車年鑑 1989年版 No512 鉄道ピクトリアル 新車年鑑 1990年版 No534
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