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2011/06/29 UP |
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![]() 名古屋鉄道 キハ10形 ー新型レールバス「LE-CarII」の営業用第一号ーレールバスとは、バスのパーツを流用した、小型の気動車です。当然、製造コストは抑えられ、かつ軽量であることから 運用コストも低減できるメリットがあります。 ですから乗客の少ない閑散路線への投入が古くから行なわれました。 国鉄 キハ10000・10200(キハ01〜03)形や 南部縦貫鉄道 キハ101形などがその例としてあげられます。 しかし、これら旧型レールバスは、総括制御が出来ず、連結両数が制限されるため、 閑散線区といえどもラッシュ時などでは対応ができず、 量産されることはありませんでした。 名鉄は、戦前から戦中にかけて統合を重ね、 中京圏に広大な路線網を有するようになりました。 しかし、その中には閑散線区も多く含まれていたのです。 その一つが八百津線です。 八百津線は、昭和5年に 東美鉄道が伏見口(現・明智)−八百津間を開業させたもので 名古屋鉄道がこの東美鉄道を合併したのは昭和18年のことです。 昭和40年には 架線電圧を1500Vに昇圧しました。 ただこれは需要に見合ったものではなく本線との一体化を図ったもので、 その実態はというと、モータリゼーションの影響をもろに受け 利用者は、ますます減少の一途を辿っていたのです。 そのため名鉄ではコスト削減を図るため、閑散線区に置いては電力供給設備を撤去し、 気動車による運行に切り替えようと考えました。 そこで白羽の矢が立ったのが富士重工業製レールバスの試作車『LE-Car』です。 1982年に開発されたLE-Carは台枠こそ鉄道車両用のものですが、 長さ11.6mの車体はバス車体メーカーでもある富士重工業のバスボディをベースとし、 日産ディーゼル製のバス用ディーゼルエンジンを搭載した。 その名の通りのレールバスです。 もちろん、総括制御もクーラーの設置も可能な新世代のレールバスです。 1984年に登場した『LE-CarII』は、LE-Carの改良型です。 車体長を12mにストレッチしました。 これを八百津線で試運転することになったのです。 その成果をふまえてできたのが、名古屋鉄道キハ10形です。 2軸ボギー台車があたりまえの時代にあえて単軸台車を採用しました。 もちろんバスがベースで、車体とエンジンには、日産ディーゼル製のものを使って 製造コストを抑えました。 1次車(3両)については、冷房装置は取り付けられませんでしたが、 翌年増備された3両については冷房化されました。 もちろんバス用のクーラーを使用しています。 八百津線の救世主となるべく、デビューしたキハ10形でしたが、 参考文献*1によると八百津線の線路状態はもはやひどい状態で、 いざ運転を始めると左右に揺れ、上下動も激しく車酔いしてしまう運転手が続出し、 車両もまたトラブル続きで大変なご苦労されたようです。 キハ10形の名誉のため言っておきますが、 単軸台車は2軸単車タイプの貨車のそれとは全く違います。 固定軸距の規定は4.57mですが、 キハ10形は大きく上回る7mのホイールベースをを誇ります。 単軸ではあっても曲線に追随して回転するボギー機構があればこその数値です。 それだけではありませんFU-30D形台車は空気バネまで付いたボルスタレス台車です。 乗り心地が悪いというのなら、それは使用線区とのミスマッチが引き起こしたものです。 キハ10形(1984年製)は新世代のレールバスとして、総括制御が可能となっていることは前述の通りなのですが、 12m級の2軸単車であるキハ10形では、2両でもラッシュ時等に輸送力不足となることが問題となってきました。 名鉄のレールバスは、八百津線だけでなく、三河線(猿投ー西中金)にも投入され(1985年3月) 1990年7月には、三河線(碧南-吉良吉田間)にも導入されることになりました。 ここで投入された後継機であるキハ20形(1990年製)は車体長15m級のボギー型に変更され、 さらに3代目となるキハ30形(1995年製)は、16m級3ドア車にサイズアップ。エンジンも鉄道車両用の250psにパワーアップし より本来の鉄道車両に近づいた構造のLE-DCへと発展してゆきました。 旅客収容力や性能が一般の気動車と遜色のないレベルに達したということですが、 逆から考えてみれば、もはやレールバスとはいえないレベルに達したと言うことでもあります。 名鉄の非電化→気動車化計画は順調に推移しているかに見えました。 八百津線のキハ10形は1995年には、より大型のキハ30形に交代し廃車となりました。 見た目には需要に見合った大型車に交代したのだから、事態は好転したかに思えます。 しかし、実態は、八百津線の旅客増にキハ10形が貢献したうえでの世代交代ではなかったのです。 なぜなら6年後の2001年10月1日。 明智 - 八百津間は廃止されてしまうのです。 それだけではありません、前述の三河線(猿投ー西中金)(碧南-吉良吉田間)までも2004年3月廃止されました。 これはどうしたことでしょう レールバス化で活性化を図ったはずの八百津線、三河線でしたが、 実のところ、乗客数は減少の一途を辿っていました。 その一方で2000年3月。鉄道事業法が改正されたことが見逃せません。 この鉄道事業法改正のポイントは"参入の自由"と"退出の自由"が認められたことです。 免許制度から許可制度に改められ、条件さえ満たしていれば 誰もが鉄道を経営できるようになる反面、鉄道路線の廃止も容易になってしまいました。 すなわち、この法改正で「原則 1年前の事前届出制」となり、 「廃止します。」と宣言して届け出さえすれば、少なくとも1年後には廃線できるようになったのです。 以前は事業者が廃止を希望しても地元自治体の了解を得られないかぎり認めてもらいにくいものでした。 もう歯止めがかかりません…。 鉄道に、もはや公共性はないというのでしょうか。 私には納得できないこの法改正でしたが、 国が見放したローカル線の維持を営利企業である名鉄に何とかしろというほうが無理です。 また、LEカーを開発した富士重工業は、2002年。鉄道車両事業からの撤退を発表しています。 これもまた無理からぬところです。 これらの技術は新潟トランシスと日本車輌製造に引き継がれたそうですが、 担当者の「無念の思い」が思われてなりません。 結果としてキハ10形は、10年あまりの使用にとどまり、キハ30形に至っては5年ももたずにお払い箱となってしまったわけです。 彼らの売りである経済性も、結果としては疑問が残ることとなってしまいました。 でも何とか鉄路を守ろうと、生み出された名鉄のLEカーたちは、 車両の製造コストを、そして運行コストを、極限にまで押さえ込めば、ここまでいけるということを示したのです。 このことは現在、3セクで存続するローカル鉄道に、大きな影響を与えたといえるのではないでしょうか。 それだけではありません。名鉄のLEカーたちは、わずか17年ほどの間に3代を数えます。 その進化が今のローカル線車両に受け継がれていると私には感じられるのです。 参考文献;鉄道ピクトリアル *1 特集 名古屋鉄道 No816 2009.3 P136 新車年鑑 1985年版 レールバスというと、第3セクターにその多くが採用され、 樽見鉄道のハイモ100形(1984年10月6日の樽見鉄道発足時に投入されたLE-CarIIの実用車)が、その嚆矢と称されることが多いのですが、 八百津線で電車の運転が廃止されレールバスが導入されたのは、 1984年の9月23日ですから、実はこちらのほうが先です。 それ以前にも八百津線で、試運転が繰り返されていることから考えても、 八百津線こそ「近代型レールバスの発祥地」の名がふさわしいといえるでしょう。
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