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−西日本鉄道 北九州線1000形 1064−

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西鉄北九州線 1000形  1064AB 
もと福岡市内線1307
1967年7月 九州車両製 定員130人(席54)
18.400×2.400×3.940 22.2t モーター 45kw×2 台車;NS-15 
参考文献 路面電車ガイドブック 誠文堂新光社
西日本鉄道 北九州線1000形 1064A

北九州市は、かつては門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市の5市から成り立っておりました。
北九州線は、市街電車であると同時に、これらの都市を結ぶ主要な交通機関でした。
少なくとも、1961年に平行する鹿児島本線が電化されるまでは
八幡製鉄所をはじめ多数の工場群を擁した工業都市の輸送を一手に引き受けていたのが北九州線だったのです。
ですから、終戦以後、西日本鉄道は、急速に増加していた乗客数を何とか捌かなければならない使命があったのです。
終戦直後は車両の調達自体が困難だったご時世でした。
そこで西鉄は北九州線に運輸省規格形である500形をいち早く投入することになります。
しかし、1948年に運輸省から割り当てられた500形の車体は当線の使用には大きすぎました。
500形同士が急カーブですれ違ったときに接触する事故をおこしたのです。
そこで北九州線に適合したサイズの600形を1950年に新造、これを集中投入しました。
2年後には、次の手を打っていることになります。
待ったなしの窮地に追い込まれた北九州線の事情が伺えます。
車両だけではありません。
北九州線では専用軌道区間において自動閉塞式を採用。最高速度を60km/hにUPしました。
さらに砂津−大門間では、列車運行間隔を45秒に設定するなど、驚きの運行密度で運転していたのです。

それでも、積み残しが出たそうです。
それ以上の列車運行間隔の短縮は不可能です。
残された手段は1列車あたりの輸送力を増強するしかありません。
そこで登場したのが、1000形なのです。

600形の約1.5倍強となる定員130名を実現した1000形は車体を中央で折り曲げ急カーブを切り抜けるという発想で連接構造となりました。
量産が開始されたのは1953年。600形デビューの翌年です。
すごいハイペースですね。しかし、決して急場しのぎではありません。
1000形は、1967年まで14年間の永きにわたって増備され、総数64編成を数えることになるのです。
もちろん、改良されてもゆくわけですが、基本的なスペックは変わりません。
見てゆきましょう。

駆動方式は吊り掛け式ですが、出力45kWの電動機TDK-534A(東洋電機製)をAB車の運転台寄り台車に各2台ずつ合計4台装架しました。
1000形の重量は、初期形(1001〜11半鋼製)で23.8t、1955年以降の全金属製車体では22.2tと軽量化を推し進めています。
当時の路面電車は、15〜16tクラスの車体に30〜40kw台のものを2台装架するのが標準です。
いかにパワーウェイトレシオがずば抜けているかがおわかりいただけると思います。
そして、これらを2群直並列制御する主制御器ES-536系(東洋電機製)は、電動カム軸式自動加速制御、
加えて、ブレーキは応答性のよいSME/STE(非常弁付き直通空気ブレーキ)を採用しています。
これらは当時の郊外用高速電車と同じ仕様といっていいでしょう。

西日本鉄道 北九州線1000形 1001A

1000形は、北九州線に遅れること1年、福岡市内線にも導入されることになります。
福岡市内線では、都市間連絡用としての性能は必要ありません。
福岡市内線の在来車に合わせ、電動機の出力は38kwと控えめに設定されましたが、
1000番台と1100番台では当時としてはまだまだ珍しい中空軸カルダン駆動を採用しました。
まさにこちらも新鋭車輌です。

ところで福岡市内線用の1000形には、北九州線と同じ1001〜15という車番が割り当てられています。
もっとも、線路がつながっているわけではないので、このことで現場が混乱することはないでしょう。
とはいえ、なぜ同じ番号、形式を割り当てたのでしょう。
多少仕様に違いがあるとはいえ、同じタイプの電車に、全く同じ番号をつけている鉄道会社は西日本鉄道くらいのものです。

福岡市内線の1000形は、後、投入時期によって、さらに1100形、1300形と分類されることになります。(1001形、1101形、1301形とも呼ばれます。)
それなら最初から1100形でスタートさせればいいじゃないかとも思ってしまいます。

ではなぜ1000形にこだわったのか?
それはきりのいい1000という数字に、意味があるからと考えざるを得ません。
思えば当時、国鉄はさておき、私鉄の電車といえば3桁の番号が普通であったように思われます。
そんな事業者が今までの殻を破って4桁の番号を割り振るとき、
すなわち1000と名付ける以上、今までとは違う新しいものにしたいという期待と意気込みとをそこに吹き込んでいるような気がするのです。

そういえば西鉄大牟田線にも1000系が存在しました。
1957年から製造された大牟田線用の1000系もまた、大牟田線初のカルダン駆動方式となる特急・急行用のクロスシート車です。
それぞれの部局が、いわばエースナンバーを譲らなかった結果ではないか、と思うのです。

このことはとりもなおさず、各部局の独立性が高かったということを意味するのではないでしょうか。

ここで西日本鉄道の成り立ちについて見てみましょう。
西日本鉄道は1942年 9月、九州電気軌道・福博電車・九州鉄道・博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道が合併したというカタチで設立されました。
以後、
九州電気軌道→北九州線
福博電車→福岡市内線
九州鉄道 大牟田線・太宰府線・三井線・大川線・上久留米線・大牟田市内線→いずれも九州鉄道時代の呼称を踏襲
博多湾鉄道汽船 新博多 - 宮地岳間→宮地岳線
        西戸崎 - 宇美間・酒殿 - 志免間→糟屋線
筑前参宮鉄道→宇美線
と呼ばれることになります。
(1944年には 糟屋線と宇美線が戦時体制により国有化され、糟屋線は国鉄香椎線に、宇美線は国鉄勝田線となりました。)

現場の意思を反映して合併したわけではありません。
陸上交通事業調整法による、つまり第2次世界大戦下における当時の国策上の縁組みでした。

登記上は九州電気軌道(本社・小倉市)による他4社の吸収合併でしたが、
西日本鉄道発足と同時に本社は福岡市に移転、旧九州電気軌道本社は「北九州営業局」となっています。
ですから、本社が所在する県都福岡の市内線を運行する福博電車は、自分たちが吸収されたという印象はなかったと思われます。
九州鉄道も当時は今ほどの規模ではありませんが、
西日本鉄道が軌道ではなく鉄道を名乗ることができるのも自分たちの存在があってのことなのだ。
という意識はあったでしょう。
一方、九軌の母体となる北九州線は自分たちこそが西鉄の本体であると思っていたに違いありません。
実際当時、規模的にも一番大きかったのですから。

さて群雄割拠ともいうべき、そのような企業体を束ねてゆかねばならぬ社長さんは、と申しますと、
九州電気軌道の社長であった村上功児氏でした。
実業家である氏が、どのような経過で、またどのような思いで西日本鉄道の成り立ちに関わっておられたのか。
そのことを知るすべはありませんでしたが、調整役として心を砕かれたに違いありません。
なお「西日本鉄道」の社名は、博多湾鉄道汽船社長であった太田清蔵氏により命名されたものです。

終戦後十数年を経た1961年当時、北九州線の年間輸送人員は1700万人に迫る勢いでした。
ちなみに福岡市内線は1000万人、大牟田線は700万人に満たないものでした。
合わせて、ようやく北九州線に並ぶということですね。
しかし、1961年以後、北九州線は凋落の一途をたどります。(1972年には900万人を割り込んでいます。)
その年電化された平行する鹿児島本線がその原因の一端であることは間違いありませんが、
それよりもモータリゼーションの進展が、とりわけ軌道線に大きな打撃を与えたのです。
ですから、そう、福岡市内線もじり貧状態に陥ってゆくことになります。(1972年には500万人と半減。)
対して大牟田線は1972年には900万人と増加、その時点で北九州線を上回っていることが資料から見て取れます。

しかし翌1973年度の決算を見てゆくと、大牟田線宮地岳線の赤字が2億7600万円、
北九州線、福岡市内線の赤字は2億7000万円に膨れあがっていました。
そんな西日本鉄道の経営を支えたのは、バス事業でした。
1943年〜44年にかけて西日本鉄道は福岡県内のバス事業者各社を買収。
福岡市を中心に県下に張り巡らされたネットワークは、いつしか西日本鉄道を日本一のバス会社に押し上げていたのです。
1973年度の決算では、なんとバス事業は8億1200万円の黒字を計上。
西日本鉄道の屋台骨を支えていたのです。

急成長するバス部門に対し、軌道部門の低調ぶりは明らかでした。
1000形が出揃ったのは1967年。
北九州線も福岡市内線も手を携えてゆかなければならない時代になっていました。
そのラストナンバーとなるのは、福岡市内線の1307号機。
福岡市内線用に最後に投入された1000形は1300形と分類されはしますが、
電動機の出力は45kwにUPされ、スペック上は北九州線の1000形(全鋼製車)と全く同じです。
たとえ線路はつながっていなくとも、情報を共有し、
メンテナンスにおいても、車両を融通するという点においても助け合おうという姿勢が感じられます。

さて、そのラストナンバーとなる福岡市内線1307号機は、
1064号機とその名を改め、北九州線に転属します。
そして奇しくも、これがまた北九州線の1000形のラストナンバー1064号機となるわけです。
ラストナンバーを改番して、またラストナンバーを名乗る例を私は他に知りません。
まさに珍車ですが、西日本鉄道においては、この事実が大きな意味を持つように思われてなりません。
すなわち、1000形は製造され続けたこの14年間で軌道線に携わる人々の気持ちを一つにしてきたような気が私にはするのです。


なお福岡市内線用の1000形については1975年の福岡市内線一次廃止時に全車が廃車となりました。
北九州線用の車両についても、2000年の路線廃止 に伴って全廃となっています。
ただし、福岡市内線の車両は広島電鉄、熊本市交通局、筑豊電気鉄道へ、北九州線の車両も筑豊電気鉄道へ譲渡され、
現在でもそ の姿を見ることが出来ます。

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筑豊電気鉄道 2000形 2100形 3000形
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 参考文献 鉄道ピクトリアル 特集 西日本鉄道 No292/1974年 路面電車ガイドブック 誠文堂新光社 1976年


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