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2008.10.25UP | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
J鉄局TOP>珍車ギャラリー>西鉄 200系 ク60形
昭和という時代を駆け抜けた おしどり夫婦 西日本鉄道 ク60形=モ200形@ ガソリンカー−博多湾鉄道汽船キハ1形−福岡県には奇妙なローカル線が存在します。JR九州の香椎線です。博多湾を抱え込むような地形を構成する海の中道。 その幅1kmにも満たない砂嘴を貫く香椎線。終点の西戸崎には何があるというのでしょう。 現在はだだっ広い公園がありますが、もちろん、そのようなものを目指して作られた路線ではありません。 実は、昔、大きな港があったのです。 博多湾には現在博多港という立派な港がありますが、明治の初め、このあたりは土砂の堆積のため海底は浅く、 石炭を積み出す大型船を停泊させることはできなかったのです。 そこで、比較的水深のある西戸崎付近が石炭の積み出し港に指定され、 福岡平野東部にある粕屋炭田の石炭は当路線を経由して積み出されることになったのです。 これがJR九州の香椎線の前身となる博多湾鉄道です。 なお当地の炭礦には海軍直轄の志免炭礦などがあり、活況を呈していました。 博多湾鉄道は大正9年には海運業をも兼業することから博多湾鉄道汽船と名を改め、新たな発展をもくろみます。 そんな順風を受け旅客用のガソリンカーとして、キハ1形は昭和10年に登場しました。 ところで気動車のエンジンといえば、船舶あるいは、トラックがそうであるようにディーゼルエンジンと相場は決まっています。 しかし、キハ1形はガソリンエンジンを搭載した気動車としてデビューしました。 なぜ、ガソリンエンジンだったのでしょうか。 併せてなぜ現在、鉄道車両にガソリンエンジンを搭載しなくなったのでしょうか。 双方のエンジンの特色について少し考えてみることにします。 ディーゼルエンジンの利点といえば、ガソリンに対して安価な軽油が利用できることをメリットの一番に持ってくる人も多いのですが、 点火プラグの必要がないことなどから、ガソリンエンジンに対して構造がシンプルにできていることもメリットとして挙げられます。 またシリンダー内の空気を高圧縮することから、頑丈にできておりエンジンの寿命も長いのです。 エンジン自体は頑丈な分、高価ではありますが、燃料代にくわえ、メンテナンスを含め長い期間使うことで経済的に優れたエンジンです。 それと忘れてはならないのは、燃料それ自体の安全性です。 ガソリンには揮発性があり、引火しやすいという問題点があります。 このところセルフのガソリンスタンドが多く見られますが、くわえタバコで給油している人がいてギョッとさせられます。 下手すりゃ大爆発です。 対して軽油は、引火点は低いものの揮発性がないので常温で爆発することはありません。 実は戦後、鉄道車両にガソリンエンジンを搭載しなくなったのは、 189人もの死者を出した西成線(現JR西日本桜島線)安治川口駅ガソリンカー横転火災事件(昭和15年)という、痛い経験があるからなのです。 もっとも、ガソリンエンジンにも利点はあります。 シリンダー周りの強度をディーゼルエンジンほど求められないことから、小型軽量化でき、 高回転形のエンジンを作ることもできます。 ガラガラ…言わないのもいいところです。 また、ディーゼルエンジンと違ってNOxを出さない等、排気ガスがクリーンなのもメリットです。 まあ昭和初期の気動車に騒音や排気ガスなどの問題をクリアするためガソリンエンジンを採用したとは思えませんから、 一にも二にも小形で軽量のエンジンがこの気動車に求められたと言うことになります。 博多湾鉄道汽船の路線は、石炭輸送に供するため高規格のものではあったと思いますが、 とりわけ、海ノ中道あたりの旅客需要はそれほどでもなく、小形気動車で十分とされたのでしょう。 そして当時、このような軽量気動車の車体に見合った出力の小形ディーゼルエンジンが開発されてなかったとなれば、 ガソリンエンジンを搭載するのも理にかなったことです。 A 気動車から電車へ−西鉄キハ100形からク60形(200系)へ−戦中の国家統制により、九州鉄道などと合併させられた博多湾鉄道汽船は、西日本鉄道として再出発します。香椎線は、戦局が厳しくなる中、結局は国有化されてしまうのですが。 キハ1形は、その前に非電化路線であった西鉄大川支線に転属。 キハ100形と名を改めて活躍を始めました。 でもそこは安住の地ではありませんでした。 西鉄は、第二次世界大戦が終わりると大牟田線の輸送力回復に全力を挙げて取り組みました。 しかし車両が足りません。 対して大川支線(昭和26年に休止)は、厳しい経営状態に陥っていましたから、 大川支線用のキハ100形を大牟田線に転属させようということになったのです。 レールの軌間も違えば、動力も違う車両を引っ張ってくるわけですからよほどのことだったのでしょう。 奇しくも200系とほぼ同じサイズであることから、キハ100形は、200系の相方として電車化されることになりました。 もちろんエンジンは取り外され、モーターも取り付けることなく台車も取り替えトレーラーとして組み込まれることになります。 併せて先頭車改造され、ク60形として見違えるような電車デビューを果たしたのです。 さて相方となったモ200形とはどんな電車でしょう。 モ200形は、ク60形から遅れること3年。 S12.10に西鉄大牟田線用の電車モ20形としてデビューしています。 1年ほど前に西鉄で作られたモ10形とは、全く違うタイプの軽量車両で、サイズも出力も小さいのです。 では、どうして、この時機、西鉄に軽量小形の車両が導入されたのでしょう。 西鉄のローカル線用? 違います。スピードアップの為です。 重厚な新京阪のデイ100などとは、発想を異にした軽快な車両です。 何でも当時、製造会社である汽車会社が、当時の国鉄形気動車(=16m級軽量ガソリンカー)であるキハ36900形 (のちのキハ41000形=キハ04系;エンジンをディーゼルエンジンに換装)、や42000形(=キハ07系)の設計思想を採り入れたもので、 正面半円形のその姿からキハ07系を彷彿させるのも無理からぬところです。 製造会社こそ違え、軽量小形という点で、ガソリンカーであったク60形とは、根っこで繋がっていたのです。 B甘木線へそんな200系が甘木線に大牟田線直通列車として入線してきたのは昭和23年です。甘木線は、もともと三井(みい)電気軌道が開業したトロリーラインで、路面電車タイプの2軸単車が走っていました。 昭和35年に地方鉄道に昇格したものの、元が元だけに路線の規格は低く、重量のある車両は導入できません。 前述のように200系は、モ200形もク60形も甘木線用に作られたものではありません。 しかし良き伴侶を得た彼らはそろって、まさに低規格路線であった甘木線におあつらえ向きの軽量車両であったと申せましょう。 昭和30年代半ばには、甘木線用として花畑に集結。 2両編成から4両編成まで、バリエーションをそろえ、長く当線で使用されることになったのです。 思えば、生まれも育ちも違う二人が、似たもの同士で結びつき、 互いの個性を生かせる職場で長く寄り添って活躍することができたわけです。 モ200形という車両がなければ、また甘木線という路線がなければ、 博多湾鉄道汽船の遺児であるク60形は、とっくの昔に姿を消していたでしょう。 こんな過去をもつ、西鉄の愛らしいおしどり夫婦は、甘木線の主役として、昭和という時代を駆け抜けてきました。 しかし、50年を超える車齢ともなれば、老朽化も進み、軽量小型であることから冷房改造も無理と判断されました。 平成元年4月。 甘木線の路盤改良工事の完成ををもって、200系の一族30両は、使命を全うし、600系2両編成(13本)に置き換えられました。 ク60形も、よき伴侶であったモ200形とともに鉄路から姿を消しました。
参考文献;鉄道ピクトリアル 「特集 西日本鉄道」No517 1989.9 |
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