参考文献;鉄道ピクトリアル #461
富山新港管理局HP
富山地方鉄道(私鉄の車両10)保育社刊
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富山地方鉄道とネットワーク
上の写真は、立山駅の引き込み線で撮影した14710形です。
黒部立山アルペンルートの入り口である、立山駅で美女平へと向かうケーブルを待つその合間に撮影したものですが、かつては、この立山駅までJRの列車も乗り入れており、
富山地方鉄道といえば、私のような関西人にとって観光鉄道のイメージが結構強いのです。
しかし、富山地方鉄道の歴史を紐解いてゆくと、全くもって一筋縄ではいきません。
とりあえずは、昭和5年に設立された富山電気鉄道がその母体となりますが、既に富山県内には、富山県営鉄道、富山市営軌道、富山鉄道、富岩鉄道、立山鉄道、黒部鉄道、加越鉄道、越中鉄道と小規模ながら多くの鉄道が存在していたのです。
路線自体の変更や廃止なども多くあり、頭が痛くなるほどです。
さて、そんな富山県の鉄道も、昭和18年、大統合されることになりました。
富山地方鉄道の誕生です。
太平洋戦争による、国家の統制が背後にあったとは言いながら、これは富山県内の交通にとっては良かったと申しあげるべきでしょう。
鉄道に限らず交通というものは、「つながってナンボ。」のもので、ネットワークを活かすことから、新しい需要も生まれます。
黒部(宇奈月温泉)と立山という二つの観光地をつなぐ、アルペン特急も地鉄のネットワークを活用したものです。
ローカル私鉄の経営が、厳しいものとなっていることについては今更言うまでもありませんが、各地に点在しネットワークを形成できなかった石川県の北陸鉄道は大半の路線を失い、わずかに石川線と淺野川線を残すのみです。
一方、富山地方鉄道によって、ネットワークを形成した富山県では、まだ多くの路線が残っています。
このことが、今や、大きな負担となってのしかかっていることも、事実ですが、ここは踏ん張ってもらいたいところです。
さて、まだ多くの路線を有する富山地方鉄道ですが、その地鉄においても、廃止された路線がいくつかあります。今回はそんな射水線の切符をご紹介しましょう。
射水線と路線の分断
射水線は、大正13年、富山北口−四方間を開業させた越中電気軌道がそのルーツとなります。もともと沿線人口が少ない当線は、海水浴場を開くなどして集客に努めますが、経営は厳しく。当時の地方鉄道補助金の適用を受けるため、軌道から鉄道に変更、越中鉄道となるという苦難の経緯を持つ路線です。
前述したように昭和18年の大統合により、富山地方鉄道の射水線となったわけですが、昭和26年、富山地方鉄道は、当線を積極的に活用させるべく高岡軌道線と富山市内軌道線をつないだ直通運転をスタートさせます。
路面電車を郊外にまで延長し、それがまた隣の都市の路面電車として乗り入れてゆくという当時としては画期的なものといえるでしょう。
しかし、このネットワークは、真価を問われる以前に分断されてしまいました。
富山新港の建設です。富山新港は、広さ1.8kuの放生津潟を利用した掘込港湾で、富山高岡地区の新 しい流通拠点として昭和43年に開港しました。おかげで海岸べりを走っていた射水線は、港の出入り口にあたる新港東口駅〜越ノ潟駅間が廃止となり、高岡側の越ノ潟駅〜新湊駅間を加越能鉄道に譲渡することとなりました。(昭和41年)
新港東口駅〜越ノ潟駅間は、20円という破格の渡船(県営、上から4枚目の切符)で結ぶことになりましたが、それでも乗り換えの不便のため射水線の乗客は6千人/km日から3千人/km日に半減してしまいました。
つながっていることの重大さがこの数字からも見て取れます。
何とかテコ入れをしなければならないと考えた富山地方鉄道は、昭和36年に中断してしまっていた富山市内軌道線乗り入れを昭和52年に復活させます。
私が、射水線に乗車したのは、ちょうどこの翌年です。
わざわざ直通運転する5010形を待って乗車しながらも、新富山で下車、再度、ここから切符を買うというということをやって切符を残したわけですが、フェーン現象のせいで、やたらと暑かったこの日のことも、切符の日付のおかげで懐かしく思い出されます。
射水線は、昭和55年4月、廃止されてしまいました。
写真左 デ5020 新港東口駅 S53.8.1
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