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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>JR西日本 0系新幹線 珍車列伝
JR西日本 0系新幹線珍車列伝国鉄時代、新幹線車両の寿命は?0系は、まさに新幹線の顔とも言うべき車両でした。昭和39年の東海道新幹線開通以後、昭和61年まで、22年の長きに亘って製造され、 総勢は、なんと3216両を数えました。 その内訳は 0番台=1〜21次(S39〜S49)1928両 1000番台=22〜29次(S50〜S55 )619両 2000番台=30〜38次(S56〜S61 )309両 で、もちろん、すべて国鉄時代に製造されています。 ところで、このうち、S62.4のJR化にともなって引き継がれたのは、2054両です。 JR東海 1339両(H編成53本=848両 S編成38本=456両 その他35両) JR西日本 715両(H編成32本=512両 S編成5本=60両 R編成21本=126両 その他17両) つまりJR化の時点で、すでに1162両もの0系が引退していることになります。 ちなみに昭和39年の東海道新幹線開業時の車両は昭和51年10月から廃止されており、 N1編成の21-1でも昭和53年3月に廃止されています。 国鉄時代において、ハードな使われ方をされていた新幹線は、 12年からせいぜい15年程度が寿命とされていたということになります。 このことは頭の隅にでも置いておいてください。 JR西日本が継承した新幹線は、0系のみ国鉄時代に登場した新幹線といえば100系もそうです。でもそれらは全てJR東海が継承し、JR西日本が継承したのは、0系のみです。 JR東海に較べ経営基盤が脆弱なJR西日本に対し、 高額な減価償却費用が見込まれる新車を引き継がせないという方針があったそうです。 それでも、JR西日本は、JR東海に負けないフラッグシップが欲しかったのです。 そんな思いから、平成元年3月には100N系「グランドひかり」をデビューさせました。 また、500系という世界最速の列車をデビューさせたのもJR西日本の意地と申せましょう。 でも、新しい車両が導入されると、どうしても従来の車両は見劣りがしてしまいます。 在来線ならば、ローカル線に転用ということも考えられますが、システム自体が大きく違う新幹線車両はそうもいきません。 だからといって、たとえ数年でも、まだまだ使える車両をおいそれと廃車にできるほどJR西日本には、余裕はありませんでした。 平成11年9月には、0系を全廃したJR東海とは台所事情が違うのです。 山陽新幹線が、日本の主要幹線であることには異論はありません。 しかし、東海道新幹線と較べて見ると明らかに劣勢で、 国鉄時代の発想のままでは、東海道新幹線の末端部分という位置づけを逃れることはできません。 JR西日本では、前述のようなエポックメイキングな新車を導入するかたわら、 古い車両であっても、新時代の山陽新幹線をアピールできる車両に生まれ変わる必要があったのです。 外見のみならず内装やアメニティを一新し、リフレッシュする一方、輸送需要に見合った短編成車両に改造し、 新たな需要を喚起する役割を0系が担うことになりました。 ただ、用途に合わせたお手頃な車両が、うまい具合に余っているわけがありません。 上手にやりくりしていくなかで、0系の珍車たちは、生まれたのです。 短編成化の流れの中で…21−3901(22−3901)運転台の側窓の形状が、新しい(2000番台のタイプ)のに、客室の窓が大きい。 このことから、初期の0系改造車と思われた方は、するどい! しかし、もう一度よくごらんください。客室の窓がやたらでかいと思われませんか。 ふつう21形には7枚+小窓が1枚並んでいるはずなのですが、 この車には6枚しか並んでいません。 そうです。これはグリーン車である15−84を先頭車改造したものです。 新幹線といえば16両編成と思いこんでいたそんな時代に、 山陽新幹線専用の6両編成は、ちょっとした驚きでした。当然モノクラス。 グリーン車が余剰となり先頭車が不足するのは当然の成り行きといえるでしょう。 しかし、この例は反対側の22−3901(16−133改造)とあわせて2両のみです。 シートピッチと窓とが合致するわけもなく眺めのよくない座席もあったように思われます。 ところで、この2両が連結されていたR23編成は、「こだま」用の一般編成ですが、 6号車だった22−3901(写真下)は、 唯一12両編成化されずに6両編成のまま残った「ウエストひかりR51編成」と併結運転が可能な仕様となっていました。 これらの6(R51編成=全車指定席)+6(R23編成=全車自由席)併結運転は、昭和63年の暮れから、平成4年の年末年始までの繁忙期に運転されていました。 「新幹線での併結運転の元祖は、山形新幹線の200系+400系である。」と思っておられる方が多いと思われますが、山形新幹線の開業は、平成4年7月ですから、0系が元祖です。 2両とも平成10年5月に廃車。 短編成化する中で、不足する先頭車をこのように中間車から改造した例は、他に 21−7951(22−7951)があります。 前者は25−2038からの、後者は26−2245からの改造です。 彼らは、最後まで残ったR67編成に組み込まれていました。 先日も最後の0系新幹線を撮影しようと新大阪駅まで出かけました。 ターゲットはもちろんR67編成です。 しかし、やってきたのはR68編成。 残念ながら、撮影できませんでした。 珍車の写真をゲットするのは今更ながらに難しいことと実感した次第です。 21−127 (22−127) 不足する先頭車を補充する方法として、JR東海で用済みとなったものを引き取るという手があります。 前述のようにJR東海では、平成11年9月には、0系を全廃しているのですから、もっとたくさんいてもいいような気がするのですが、 この例は、先頭車であるこの2両(S50製19次車;H2.2譲渡)だけです。2000番台はおろか1000番台も全く譲渡されていません。 2両とも奇しくも平成11年6月に廃車になりました。JR東海では、この年に100系の廃車さえででいます。 0番台である彼らがもし、JR東海にとどまっていたとしたら、ここまで長生きはできなかったでしょう。 彼らも、残念ながら撮影できませんでした。 Q編成=4両編成= 広島以西限定運用となる4両編成の「こだま」に用いられた編成です。 需要は少なくとも、「列車本数だけは確保しておかないと見向きもされなくなるのでは…」 という消極的な見方も可能ですが、 私は新しい需要を見いだすために生まれたものだと考えたいと思います。 4両編成であるQ編成(4×6)は、 平成12年から14年にかけて100系P編成(4×10)にバトンタッチしました。 先頭車がM車である100N系−V編成−があればこその交代劇でした。 とすれば、この後継編成は500系しかない? グレードアップの流れの中で…21−5000番台(22−5000番台)国鉄時代の東海道山陽新幹線は、東京中心の発想で組まれたダイヤでした。 たとえば、新大阪を朝早く出て博多に行こうと思っても、いい具合の列車はありません。 逆に博多で一杯やってから大阪に戻ろうと思っても、同様にいい列車はなかったのです。 また、「こだま」が各駅停車なのは分かってはいても、「ひかり」を名乗る各駅停車が、山陽新幹線にはいっぱいいて、がっかりさせられることが多かったのです。 遅い「ひかり」のせいで、山陽新幹線はすっかり遅いものだというイメージが定着してしまっていたと言っていいでしょう。 JR西日本は、そんなイメージを払拭する必要がありました。 昭和63年3月のダイヤ改正に於いて「ウエストひかり」を登場させることになります。 停車駅を 岡山、広島、小倉 の3駅のみに限定し、新大阪−博多間を2時間59分で結びました。 「やればできるじゃないか。」という画期的な列車です。 起用されたのが0系というのは、イメージアップには繋がらなかったかもしれませんが、 2×2の4列シートとなり、トイレや洗面所もリフレッシュ面目を一新しました。 車体の塗装も窓枠の下にブルーのラインが一本追加され、ぐっとスピード感がアップしました。 当初は、6両編成でグリーン車なしのモノクラスでしたが、同年8月からは、グリーン車を連結、12両編成の堂々たる看板列車に成長しました。 「ウエストひかり」は、現在「ひかりレールスター」へと発展的解消をとげ、0系とともにその姿を消しましたが、その貢献度は大きかったのです。 JR西日本としては、0系の中でも、新しい2000番台で「ウエストひかり」を統一したかったのではないかと思われるのですが、 やりくりの都合上、1000番台改造の「ウエストひかり」も登場します。 21−5001(22−5001)の2両です。 イメージアップに成功した0系車両は、「ウエストひかり」の運行終了後も、そのままの姿で活躍を続けました。 アコモ改良車もこの塗装を踏襲します。 付加価値を求めて…25−3900番台 シネマカートンネルが多く、車窓の景色を楽しむのには今ひとつという点が挙げられます。 そんな弱点を克服すべく、3時間近い時間を、 映画でも見て楽しんでもらおうという車両が登場しました。 「ひかりビデオカー(のちのシネマカー)」です。 当時のパンフレットを見ると、 「ロッキー」や「インディージョーンズ」 そして「となりのトトロ」なども上映されています。 こりゃいいなと誰でも思いますが、有料です。 当初は600円也の整理券が必要でした。 意欲的な試みでしたが、利用者数が思うように伸びず、まもなく500円に値下げ、最後は無料開放されました。 私も、乗車しました(左上の25-3903)が、もうその時は無料でした。 映画のタイトルも古いものでよく覚えていないのですが、「やくざ映画」だったような気がします。(違ってたらお許しを) 50インチのスクリーンに専用プロジェクターから投影される画像は、やはりそれなりのものでした。 上映中は当然ですが、車内放送もなく、案内は電光掲示板のみとなっています。 薄暗い、静かな環境は、ビジネスマンにとって格好の休息場所だったのでしょう。 定員38名のビデオルームにいた数名の乗客は、その大半が居眠りをしていたように記憶しています。 昭和63年8月から12両編成の「ウエストひかり」に組み込まれた「シネマカー」でしたが、平成6年3月にはその姿を消しています。 失敗例に挙げられる「シネマカー」ですが、静かな環境をのぞむ乗客のために、 「ひかりレールスター」では4号車が「サイレンスカー」として登場します。 別に皮肉で言っているわけではありません。 「シネマカー」は、「サイレンスカー」に発展的解消したのではないかと私は考えています。 さて、その「サイレンスカー」も指定席が最後に残るのは4号車(=「サイレンスカー」)ということで、 人気がないように思われるむきがありますが、それは違うと思います。 なぜなら、案内放送のない「サイレンスカー」は、指定がない限り、事情を知らない乗客には発券しにくいものなのです。 また、満員の「サイレンスカー」がサイレンスでいられるものでしょうか? もっと「サイレンスカー」の存在をアピールすべきだという考えもあるようです。、 でも、常連さんにとっては 「そんなん宣伝せんでええで、静かにしといてんか…」 というのが本音ではないでしょうか。 37−7730番台 ファミリーひかり こどもたちは、可愛いものですが、愚図られるとやっかいです。 親でも閉口する彼らをなだめておられる親御さんを見るにつけお気の毒にと思うのですが、 それも長時間となると、「いいかげんにしてくれえ」と思わず叫びたくもなります。 ファミリーがそろって旅行をするとき、自動車がいいと思うのはそんなときです。 ビジネス客にしても歓迎できないのが、お子さん連れです。 お得意さんでもあるビジネスマンの気持ちは無視できません。 だからといって、未来のお得意様でもあるこどもたちを無視していたのでは、 新幹線の未来もありません。 「そうだ!こどもたちは一カ所に集めればいいのだ。」というわけでもないでしょうが、 平成7年7月 1両を二分割した半室構造を利用して、一部屋を丸々、プレイルームにするということをやってのけた車両が登場します。 37−7730番台「ファミリーひかり」こどもサロンです。 父親経験者なら、ショッピングセンターの一角にあるプレイルームで子供のお相手をされたご経験がおありと推察いたしますが、まさにそんな感じです。 「こどもサロン」は、年末年始や夏休みなどに運転され結構好評だったと言うことです。 しかし、種車となるビュッフェ車両もそうそう数もなく、通常期間は一般車として運転せざるを得ない「こどもサロン」は、増備されることもなく その姿を消しました。 少子化ゆえ、こども公害が相対的に減少したということもあるでしょう。 こどもを沈黙させる、携帯ゲーム機も この際、お役に立っているかもしれません。 ちなみに平成14年9月には、JR四国に「ゆうゆうアンパンマンカー」という子供サロン付き車両が登場しました。 現在も活躍中ですが、0系新幹線「ファミリーひかり」が、元祖です。 36−1003 0系新幹線最後の食堂車 新幹線における食堂車の営業は、昭和50年の山陽新幹線博多開業に合わせて開始されました。 6時間ものロングランをするからには必要と判断されたわけです。 食堂車となる36形は、H1編成からH96編成まで、すべてのひかり編成に組み込むべく 17.18次車として昭和49年に64+10両、19〜21次車として昭和50年に12+6+4両の合計96両が製造されました。 一時にこれほど大量の食堂車が製造されたというのは驚きです。 在来線の食堂車と違って車幅のある新幹線では 通り抜けする乗客、乗務員専用の通路を設けました。 落ち着いて食事をしてもらうための配慮です。 しかし仕切りを設けたことで、景色を楽しめなくなってしまい、 「せっかくの富士山が見えないじゃないか!」 と不評を買うことになりました。 国鉄ではその声に応えて、 仕切りに窓を設置するその名も「マウント富士」改造を行っています。 (S54〜S58にかけて) ここに珍車としてご紹介する36−1003は、 翌昭和51年に追加増備されたN97〜99編成に組み込まれた 0系新幹線最後の食堂車です。 ところでN編成は、小窓付きが特色となる0系新幹線のマイナーチェンジ版、1000番台によって構成された編成です。 N編成のNが、NewのNか、Narrow(窓の幅が狭い)か分かりませんが、 1000番台は、東海道新幹線開業時の車両を取り替える目的で製造されたものでもあります。 偶然でも何でもなく、N99編成が登場した翌月の昭和51年10月から、 0系新幹線初期車の廃車が始まることになります。 思えば、99編成もの「0系ひかり編成」が勢揃いした昭和51年は、 0系新幹線の全盛期と言っていいでしょう。 これだけの数を揃えたのにもかかわらず、 開業以後の食堂車の経営は芳しいものではありませんでした。 新幹線に限らず、食堂車のお客は、その列車の乗客に限られます。 すいている列車では開店休業状態になる反面、繁忙期には、自由席代わりに、コーヒー一杯で長居をする不心得者も多く、 いきおい、お客の単価を上げなければやってゆけない状態になってしまいました。 それだけのコストがかかっているのだから仕方のないことでもありますが、 料理そのものは、価格に見合ったものとは思えない高価なものとなりました。 お客の心理からすれば、貴重品は持って出るものの、座席においてきた荷物は、やはり気がかりです。 また満席状態の自由席では、その間、席を空けておくこと自体罪悪感にとらわれます。 帰ってきたら誰か座っているかもしれません。 それなら車販の駅弁を自分の座席で食べる方が気分的に楽です。 安く上げたいのなら、コンビニでパンかおにぎりですませばよいのです。 加えて、食堂車は8号車です。編成の中程にあるのですが、それでも両端の車両からは200mちかい距離があります。 往復で400m。結構な距離です。わざわざ出かけて行くだけの魅力があったとは思えません。 従業員さんにとっても、狭くてかつ揺れを伴う職場はキツイものであったに違いありません。 新幹線の体面を保つべく、100系新幹線にも食堂車は導入されましたが、食堂車自体を増やす方針はすでになく、 100系X編成が増備されるとともに、36形食堂車の引退が始まります。 早いものは11年の命だったということになります。 一部は、国鉄の手によって、普通車に改造されました。 26−1900番台です。 国鉄時代に改造され、新たな番台区分が与えられた0系は珍しく、これ以外には 25−1900番台=G車(15-1000番台)を普通車に改造=3両、ビュッフェ車(37-1000番台)を普通車に改造=1両−1904のみ) 25−2900番台=ビュッフェ車(37-2500番台)を普通車に改造=5両 しかありません。 26−1900番台の普通車へ改造は、結構手のかかる大工事であったと思われます。 改造されたのはたった3両にとどまりました。 (これも平成元年には廃車が出ています。唯一、26−1901のみが、長生きしましたが、これはJR東海の車両です。) JR化以後も、36形は改造されることもなく、少しずつその数を減らしてゆきました。 それでも、36−1003は、NH21編成(大窓の基本番台+小窓の1000.2000番台の混成編成)に組み替えられ 食堂車として活躍する最後のグループに入っていました。 しかし、予想もしなかった悲しい幕引きをすることになります。 平成7年1月の阪神大震災です。 山陽新幹線は分断され、まず姫路−博多間で運転を再開することになりましたが、食堂車営業の基地となるのは新大阪です。 資材やスタッフを姫路に移転することなどできるはずもなく、食堂車の営業は休止されてしまいました。 もともと経営が厳しい状態であった食堂車です。 全線復旧まで、多くの従業員さんを待機させておく余裕はありません。 4月8日には、全線復旧したものの、36形には、もはや誰の姿もありませんでした。 ちなみに最後の36形(36-84)が廃車されたのは、平成11年10月です。
−さて、いくつか0系新幹線の珍車をご覧いただきました。 短編成化による単なる数あわせだけではない。 JR西日本の取り組みの一端がご覧いただけたものと思います。 もっともJR東海の0系も2×2の座席を導入するなど改良がなされました。 しかし、あくまで脇役のままひっそりと消えていったという感じを否めません。 対して、JR西日本の0系は、むしろ挑戦的といっていいくらいの意欲的な改造が施されたといっていいでしょう。 全てがうまくいったわけではありませんが、0系「ウエストひかり」の成果は、 700系E編成「ひかりレールスター」へと引き継がれてゆくのです。 JR西日本の0系はJR東海の0系より、おおむね9年以上長生きしました。 最後まで残ったR63編成の21-7006は、 昭和58年製造の32次車である21-2011の改造車ですから25年活躍したことになります。 在来線の車両から較べると長いとは言えませんが、 国鉄時代における新幹線車両の寿命からすれば、 「よく頑張ったなあ。」と思わずにおれません。 現場でのメンテナンスも大変だったのではないでしょうか。 何回となく手をかけたからこその愛着もあったのでしょう。 最期は懐かしの旧塗装にお色直しされ、0系新幹線は引退の花道を飾ります。
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